辰野金吾:英国的・ピクチャレスク的自由と、後進国日本の国家的要請のあいだで

 河上眞理+清水重敦『辰野金吾』(ミネルヴァ書房、2015)を3月中旬にご恵投いただき、すぐに読んでお礼のメールを送ったのだが、あらためて感想を書いておきたい。

 辰野金吾(1854-1919)といえば、藤森照信先生の『日本の建築 明治・大正・昭和 3 国家のデザイン』(三省堂、1979)所収の辰野論がもう震え上がるような珠玉の名品なのだが、そこではいわば明治という激変の英雄的時代そのものをつくった人物たちの思惑と野合と浮沈が活写され、その三国志的なダイナミクスを下から食い破るようにやがて国家や都市という誰にも得体の知れぬ化け物が立ち現れて個人を相対化していく、そうした物語が綴られていた。そこに藤森的ニヒリズムがみなぎって怖いのだが、この辰野論にあっては、ひとりひとりはいわば「明治」という巨大な渦をなすうねりのひとつひとつとして躍動するための(そのかぎりでの)個性を与えられる。辰野はほとんど言葉を残さなかった、ということもあるのだが、その欠落を藤森論考では渋沢栄一との関係、あるいはそのヴェネツィア的=商人資本的な自由市場という理想への共鳴といったイメージで埋め、明治国家の組み立ての一部たる建築アカデミーの支配者・辰野という顔に膨らみを持たせていた。
 対する河上+清水の戦略は、辰野の身体をもっと直接に取り巻く舞台のセッティング、具体的には明治初期の建築教育の政策と組織体制を丁寧に再構成し、そのなかでの辰野の足跡・進退を正確に再構成しつつ、『辰野金吾滞欧野帳』によって彼の目と手を、「辰野金吾氏演説」によって彼の言葉を新たに発見し、より等身大の「人間辰野金吾」を描き直すこと、ということになろう。目・手と言葉。今まで知られなかったその具体的な手触りのある資料から浮かびあがるのは、辰野の「美術建築」観の複合的な機微である。この「美術建築」という言葉、僕の記憶では辰野の弟子・伊東忠太(1867-1954)あたりでは artistic architecture だった思うが、辰野の師ウィリアム・バージェス William Burges(1827-81)が使っていたのは art-architecture であり、バージェス自身 art-architect と自称した。
 前者の artistic architecture は、建築という言葉を artistic という形容詞で補強することで西欧的「architecture」に見合うものに引き上げる、という後進国的コンテクストで要請される意味合いがあったのではないかと僕は解釈している。また伊東忠太にあって「美術」には、フェノロサ=天心的な日本美術派のナショナリズムも張り付いていたように見える。
 対して辰野の art-architecture はむしろ日本美術陣営に対する西欧留学組の対抗の根拠という正反対の政治的脈絡もくっついていたように見えるのだが、それはともかく、もっと直接にバージェスゆずりであり、19世紀後半の英国における、クイーン・アン様式とかフリー・アーキテクチャーとか呼ばれたピクチャレスクな折衷主義的デザインの傾向のなかで意味を持った言葉なのだろう。そこに係留されているのは、たとえば手仕事的な細部や装飾の美術的豊かさという意味でのアーツ・アンド・クラフツであり、美術と建築のジャンル的・職能的な協働である(本書もまた美術史家・建築史家の夫妻による協働だったりする!)。あるいは、不規則な変化と連想性に富んだ意匠を尊ぶピクチャレスク的価値観の広範な普及であり、広い意味では新古典主義的な形式性(一点から全体を貫く構成と単純なジオメトリーの強調)を忌避するムードである。滞欧中の辰野が旅のなかで描いたスケッチと演説とが、こうした思潮との関連性の視点から読み解かれる。
 建築における「自由」「折衷」は、19世紀後半的自由放任(における中上流層の欲求)に対応するものだろう。真正なクラシックにも真正なゴシックにも決して振れない、相対主義的な自由にとどまろうとする意匠。ただし、実際の「辰野式」のデザインは、バージェスあるいはノーマン・ショー Richard Norman Shaw(1831-1912)的な変化と多様性を重んじつつも、クラシカルな形式性や安定性に傾く、と河上+清水は評価する。英国的自由主義と、後進国日本の国家的要請とのあいだには、大きな大きな開きがありそうだ。辰野はその開きのあいだにいた、ということになろうか。あるいは、そもそも国家的要請などというものが明確にあったわけではないとすれば、それがいかに形成されたのか、という問いが立ち上がる。
 とにかく、こうして僕なりに整理しなおしてみて思うのは、藤森論考と本書とでは、ねらいも、フレームも、方法も、文体も、何から何まで違うのだが、結論として得られるイメージは決してそう遠くはない、ということだ。藤森が渋沢に仮託しながら描いたヴェネツィア的な自由(と明治国家との距離)という構図を、河上+清水はより具体的な実像の掘り起こしによってロンドン的な自由(と明治国家との距離)という構図において再確認している。もちろん、新たに描き出された実像に本書の魅力と価値があることはいくら強調してもしすぎることはないのだが。


 ところで以前、雑誌『10+1』の藤森照信特集を、中谷礼仁さん・清水重敦さんと一緒にやったとき、藤森先生は、自分が院生の頃はまだ歴史といえばマルクス主義で、そのムードのなかでは「明治」はまあ悪だったんだよ、と言っていた。モダニスト史観からしても明治建築は打倒すべき(出来損ないの)歴史主義であり、明治的建築アカデミーのボス辰野は(特別に悪く言う人はいなくても)歴史の影に隠れてすごくマイナーだった。輝くべきは分離派だった    だからこそ辰野をやってみる意義があると思った    と。
 戦後日本では、企業主義的資本主義を支えたテクノクラート的・ビューロクラット的なもの、権威主義的なもの、旧体制的なものが知識人に無条件に忌避される傾向がある。それらへの対抗という点では、マルクス主義近代主義は対立しない。戦後はモダニストだってマルクス主義に染まったが、そのムードのなかで最初の日本近代建築史は書かれた。個人を主体とする自由な近代主義も、あるいは民主主義や社会主義的な諸思潮も、あるいは技術への人間的問いも、大正期にその起点が見出される。それがなぜ権威主義的・全体主義的なもの(=昭和1)へと変質してしまったのか。それをいかに歴史化して総括するか。いかにして戦後(=昭和2)をそうでない近代として生き直すのか。こういったことが問われるべき問題系になった。
 昭和2(戦後)は、だからある種の禁忌(抑圧)を抱え込んだ近代のやり直しになる。稲垣栄三(1922-2001)の『日本の近代建築』(1959)はそういう同時代の(=自身の)問題意識(=知の拘束条件)を歴史化したものだということはできる。その後、68年周辺で大正が発見されたということになっているが、それは実のところ、ある意味ではすでに歴史の起点=中心に置かれていた分離派周辺の評価を、ポスト・モダン的にひっくり返すことだったともいえよう。そういう意味では、幕末・明治はいつも、忌避されるにせよ、賛美されるにせよ、禁忌=抑圧された近代建築史の構造からは切り離された出島みたいなところがあるように思える。

 だから、もし明治の読み直しが大きな歴史の書き換えに貢献しうるとしたら、それをどうやって大正・昭和の意味を変えることにつなげられるか、がひとつのポイントになるだろう。バンハムがアカデミーと近代建築をつなげたのとは、それはやや(ひどく?)違う話なのかもしれないが。