台湾の世界遺産!?

201703_taiwan_world_heritage_class_guide 平野久美子 編著『ユネスコ番外地 台湾世界遺産級案内』(中央公論新社、2017年3月)刊行。
 作家の平野さんとは、昨年2〜3月に横浜バンカートで開かれたBankART schoolでの全8回のレクチャーシリーズ「アノニマスな世界をつくるアート(わざ・すべ):台湾の都市・建築を読む」でお知り合いになった。この本は、一般向けの台湾旅行ガイドブックの体裁をとって、台湾の世界遺産候補地(政府選定)を18ヶ所解説するもの。平野さんにお声がけいただいて、18ヶ所のうち1つを担当させていただいた。
 ご存知の人も少なくないとは思うが、台湾には世界遺産はひとつもない。実際には、台湾は地球レベルで誇るべき自然的・文化的なヘリテージの宝庫であるが、台湾(正確にいえば中華民国)が国連加盟国でないというその1点において、それらが世界遺産になることは法的にありえない。ユネスコは「人類」の遺産をうたっているが、実際には国家の連合という枠組に規定されている。
 文化財だって、健康や衛生だって、国際政治と分かつことができないということを浮き彫りにする、そういう活動のスタイルは台湾らしい。機能しないことがわかっている枠組みを大真面目に動かして、それが無効とされるプロセスを国際社会にディスプレイする。こういうのは台湾お得意の戦術だ。真剣なのだが、どこかで楽しんでいる。いいぞ、頑張れ、と僕はエールを送る。そういうつもりで1つお引き受けした次第。でも日本でこういう本を出すときって、どういう顔をすればいいのだろうと考えはじめると複雑ではある。「いや人類としてさあ」、というわけにもいかないところがある。台湾が国際的な地位という点で宙吊り状態になっている理由は某大国ばかりにあるのではなく、日本の戦前の台湾統治(植民地支配)と対中国戦争(日中戦争)と戦後の対米従属的な外交などは無視できないわけで。

 それはそうと、真っ赤な表紙がつづいたね。

モダニスト再考[日本編]建築の20世紀はここから始まった

201702_RethinkModernist_JP 20代の頃とてもお世話になった『建築文化』。その2000年1月号(Vol.55, No.639)特集「日本モダニズムの30人 モダニスト再考2 国内編」が、単行本になりました。青井は角南隆と森田慶一の2編書いていまして、今回少し手を入れています。
 以下に目次を流しておきますが、ネット上に完全な目次が転がっていないようで、手打ちするのは面倒なのでタイトルだけでご容赦を。著者は表紙画像(下の方)に目を凝らせばわかると思います。

中村達太郎 亀裂の保存
佐野利器 都市・テクノロジーナショナリズム
角南隆 技術官僚の神域 機能主義・地域主義と「国魂神」
藤井厚二 藤井厚二という不安
今和次郎 ノート-「日本の民家」を中心として
アントニン・レーモンド 表現と表象
村野藤吾 「社会的芸術」として構想されたもうひとつのモニュメンタリティの射程
小山正和 日本的モダニズムの雑誌編集人
上野伊三郎 さまよえる建築工芸
石本喜久治 「建築美」、その転換という作為
山田守 形態の誘惑ーあるいは禁欲的エロティシズム
吉田五十八 本音と建前/蔵田周忠 日本モダニズムの「水先案内人」
森田慶一 IMITIATIO CORBUSIERI-分離派から古典主義へ
堀口捨己 「どうしようもないもの」の形容矛盾
石原憲治 全体性を回復する回路をつなぐ「社会技術」という視座
今井兼次 ドキュメンタリーのモダニズム
伊藤正文 反転する純粋技術
土浦亀城 迷いなく駆け抜けること
岸田日出刀 丹下健三を世に送り出した男
藤武夫 建築の政治性と記念性
山越邦彦 「建築 ルート・マイナス1建築→構築」という冒険
坂倉準三 他者による建築はどこまで他者的であり得るか
川喜田煉七郎 ユートピア-アヴァンギャルドの往還
山口文象 「実践へ」
谷口吉郎 転向の射程
白井晟一 伝統のパラドックス
前川國男 木村産業研究所という出発点
小坂秀雄 「体系」の刻印
丹下健三 神話的「日本」と「計画の王国」

謹賀新年はあまりに遅すぎてお恥ずかしいのですが。ご挨拶かたがた2016年の備忘録。

 2月も末になったのでもう居直っていいますが、本年もよろしくお願いします。
 年末年始は神山町(徳島, 3日間)、閩南地域(中国福建省南部, 10日間)、原発被災地(福島県, 5日間)と出張続きで、その後もバタバタが止まらず、年賀状も結局あきらめてしまいました。

 さて、昨年(2016年)の自分の1年間を 4半期に区切ってまとめておきます。これやっとかないと区切りがつかないんで。

1(1-3月):1月16日、台湾総統選挙にて蔡英文当選。2月1日〜3月28日、BankARTスクールにて連続8回のレクチャー(うち1回は石榑督和さんに代打頼んだ)。2月24日、都市基盤史研究会にて青井・岡村・石榑の連名発表。近々本になる予定。2月25日、八束はじめさんと対談(10+1website)。2月27-28日、明治神宮書評会、土居義岳さんと。3月4日、TKC(トウキョウ・ケンチク・コレクション)にて論文審査。新谷眞人・石川初・一ノ瀬雅之・森田芳朗・八束はじめの皆さんと。3月19〜25日、台湾調査。9月に控えたISAIA(中国・韓国・日本の建築学会が開催するアジア建築交流国際会議)の準備もいよいよ具体的に。

2(4-6月):4月8〜15日、息子の高校のプログラムでフランス人高校生ホームステイ。4月23日、NUS(シンガポール国立大学)の Chen Yu さんを招いてレクチャ(青井のUrban and Architectural History)。『日本都市史建築史事典』プロジェクトはじまる。伊藤毅先生が編集統括。建築史だけでなく、社会史・考古学・民俗学等の専門家が一冊の事典を編む。青井は戦後編担当、タイヘンだ。研究室で東京のインナーシティの外側を歩く企画、東京アウターリング(tOR)を準備。5月8日に第1回羽田。研究室メンバーだけでなく、建築家・編集者など多くの方々(橋本純・日埜直彦・川尻大介・山岸剛ほか)に参加いただき、近世・近代の羽田のあまりにドラスティックな変転の跡を訪ね歩く(7月初にレポート冊子『tOR01羽田』完成)。

3(7-9月):7月3日、第2回北千住の街歩き。参加者増(浅子佳英ほか)。情けないことに青井は熱中症で倒れそうだった(『tOR02北千住』は10月完成)。7月9日、地域文脈小委員会(日本建築学会都市計画委員会傘下)の企画で明治神宮外苑地区を歩く。中島直人さんら8名と。今日におけるコンテクスチャリズムの可能性を探る共同研究はもう数年になるが、いよいよ(ようやく)新しいチャレンジがはじまる感じ。やっぱり歩くことを共有するのは大事だ。8月2〜21日、台湾調査(途中オープンキャンパスのため一時帰国)。今年は19世紀初期の建街事例(永靖)と20世紀鉄道町の事例(二水)を5日ずつインテンシブに掘る。前半は恩田重直さんに参加いただいたのが良かった。8月24-26日建築学会大会@福岡大。8月31-9月3日綾里調査。ついにスナゴハマオオヤの屋敷に入らせていただき、何から何までお世話になり、綾里の歴史的理解をうんと深めることができた。9月5-10日神山スタジオ(大学院設計スタジオ2)。伊藤暁・門脇耕三のお二人と。今年は神山の高橋成文さん、東工大の真田純子先生といった方々に大変お世話になり、民家にとどまらず環境全体の人間的・産業的な再編過程に唸る。

4(10-12月):神山スタジオは10月より設計編を進め、12月は4日に講評会(ゲストに福島加津也・馬場兼伸さん)、18日に合同成果発表会(慶応SFC石川初研究室と)、24日に現地報告会とジェットコースター。石川研との議論で視点書き換わった。10月23日、半田市の三軒長屋コンペ。藤原徹平さんと審査員。企画者の吉村真基さん(D.I.G Architects)のパワーに圧倒される。11月12日、tOR第3回練馬の街歩き。またまた参加者増える(鈴木明・吉良森子・フェリックスほか)。屋敷林のある散村の宅地化、江古田の同潤会分譲住宅等。少し遡るが、9月に南会津の建築家・芳賀沼整さん(はりゅうウッドスタジオ)から、福島原発事故避難者が生活再建を考えるための地図をつくりたいとの相談。NPO法人福島すまい・まちづくりネットワークが福島県の補助を得て実施するプロジェクト。青井は監修の立場で関わることになり、10月に方針を決め、ペラの地図ではなく複数の視座から作成した地図をバインドした64ページのアトラス(地図集)をつくることに。11月13-14日、12月11-13日、年明け1月6-10日と時間を見つけては取材・打合せに被災12市町村出張。インフォグラフィクスが大事なので中野豪雄さんにデザインをお願いし、編集実務をKさんに依頼。東大の井本佐保里さんらにも協力を要請。12月26日-1月4日は福建調査。恩田重直さんと。廈門大・華僑大の方々にもお世話になり、よいフィールドも見つけた。

 いま(2月末)は福島の案件(『福島アトラス:原発事故避難12市町村の復興を考えるための地図集(仮)』)がいよいよ佳境というところ。研究室の院生たちも十数ページのコンテンツをつくって、だいたい手が離れた。地図そのものが少々難航中だが何とかなりそう。3月末完成予定。10月スタートでよくここまで来たものだ(皆さんに感謝!)。しかし、原発被災地は思った以上に複雑に引き裂かれている。浜通りを何度も車で往復し、中通り中山間地域にも行って、その分裂的な状況と構造を少しだけ理解できた。ただ公的なプラットフォームでの表現の限界というものはあり、そのあたりはまた完成したらこのブログでできる範囲で書いておきたいと思っている。
 つづいて4月に開催予定のある展覧会の準備にとりかかっている。これまた時間のないプロジェクトだが、何とか意義あるものにしたい。

 今年はもうほんんとに「カタチにする年」にしたい。本ですね。

明治大学 建築史・建築論(青井)研究室 今年もOB/OG会をやった。気づくと間もなく10周年。

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毎年やっているOB/OG会。間もなく青井研10周年ですよと誰かが教えてくれ、研究室のウェブサイトで数えてみたところすでに90人くらいのメンバーがいることに気づく。
今回(20161119)は忙しいなか十数人のOB/OGが駆けつけてくれ、5期生の滝沢さん(野村不動産)・野口さん(永山祐子建築設計)・笹さん(フジテレビ)の3人がそれぞれの仕事についてレクチャしてくれた。毎度このレクチャがめちゃ面白く、しかも勉強になる。
2次会は流れでメキシコ料理。

20160925「都市としての闇市」・・・もうかなり前になりますが。

闇市研究会主催のこのシンポに、日本近世史の小林信也先生、社会学・都市論の吉見俊哉先生とともにコメンテーターとして参加させていただきました。ほんとはこの研究会のメンバーだったのですが前に足を洗い(笑)、少し時間が経ちました。この間にヤミ市研究会は『盛り場はヤミ市から生まれた』および『同 増補版』を出していますが、さらにその後各メンバーが個別あるいは共同で進めつつある作業群を「闇市研究のフロンティア」として提示する試み。

公開研究会「都市としての闇市 闇市研究のフロンティア」
 2016年9月25日(日)13時〜17時30分
 東京⼤学⼯学部⼀号館3階建築学専攻会議室
 司会:橋本健二
 主旨説明(初田香成・10分)

 コメント
 コメント
全体質疑(20分)
まとめ(橋本健二・5分)
コメンテーター
 青井哲人(建築史・明治大学理工学部建築学科准教授)
 小林信也(日本史・東京都公文書館
 吉見俊哉社会学東京大学大学院情報学環教授)

闇市研究」は、共同研究プロジェクトとしては、かなり面白いと思う。色々な分野の研究者が「闇市」という対象を共通項として集まる、ということが面白い。逆にいえば、プロジェクトによって闇市の像が多角的に充実した立体となっていくだけでなく、各々が(プロジェクトにおいて闇市を位置づけている)フレームワークパースペクティブが更新されていかなくてはあまり意味がないと思うのだ。
そんなことを考えたときに重要な視点となるのは、闇市にまつわる「量」と「政治」なんじゃないかと僕は思う。闇市というのは闇取引の市場であって、それを一般の市場から区別するのは「ヤミ性」だ。したがって通常(というか定義上)それは地下化していて見えないのが当然である。しかし太平洋戦争の敗戦は、本来なら不可視のヤミの空間を、地上に、大量に、出現させた。それゆえに、ある種の空間的・景観的な特質もかたちづくられた。これらが「闇市」(戦後闇市)の基本的な特質だろう。地理的には主要駅だけでなく郊外部にまで分布し、社会経済的には出自の異なる無数の素人を商人に変え、また表象的には統制解除(=ヤミ性の解消)後にも維持・強化されるようなイメージを形成し、そして都市政策的にはこれまた圧倒的な経済復興・成長とぶつかって整理対象とされていった・・・という一連の事情が、私たちの「闇市」理解を強く規定している。これらはいずれも「量」なしには起こり得なかったことだろう。
 次に「政治」である。ヤミが地上化する事態が大量に生じたのは、行政・警察機構がイリーガル・セクターと手を組まざるをえないほどに、通常の経済が麻痺したからだろう。しかも商業者は大量の「素人商人」である。いくつかの部門が抜き差しならない利害関係をもって有機的に協調する、一種のコーポラティズムをそこにみることができる(たとえ消極的な選択であったとしても)。突飛なことをいうと、占領軍が天皇を担ぐ、という構図があらゆる戦後的な協調を吊り支える、象徴的な協調であったという見立てもできそうな気がする。
 逆に、統治者にとって、この種の協調はあくまで社会統治の手段だったのだから、闇市が狂乱状態や暴動・革命の原因になるようなら取り締まらなければならない。それ自体、微妙なバランスの求められる政治的問題だった。そのうえ店主も客も素人だったのだから、闇市は社会一般からみて特殊な領域だったのではなく、ほとんどの国民がその一部だったのだ。闇市の制御は相当に難しい問題だったのではないか。
 しかも、社会の一部には闇市への倫理的な憎悪がみられた。逆井さんによれば、その憎悪が社会的・民族的な周縁性に投影され、闇市を旧植民地・旧外地人(第三国人)に結びつける文化表象が形成される。それは保守的政治家などにも顕著な傾向だったようだし、エリート文化人の場合もそれが大衆憎悪と結びつくかたちで意外に根強かったのではないか。では、左翼の闇市観はどうか。逆井さんに尋ねたところ、それも単純でなかったという。左翼にも、ヤミ性を倫理的に間違ったもの、封建的・旧弊的なものとして嫌悪するグループもあれば、むしろ民衆的リアリティそのものと賞賛し、さらに積極的にオルグ(組織化)の対象として捉えるグループもあったという。占領軍・政府はこの後者の側面に注意を向けざるをえなかっただろう。1947年のゼネスト中止命令以降の、いわゆる“逆コース”のなかで闇市の取締が強化されていったのも当然である。
 そんなわけで、橋本先生の「社会移動」(階層間の移動)の計量分析を歴史研究に応用するアプローチはマクロな社会構造・社会変動のなかに闇市の位置と輪郭を与えており、これは文句なしに素晴らしかったのだが、加えて、表象文化論の立場から闇市の「政治」に切り込んだ逆井さんと、占領軍と闇市との関係に迫るために基礎的な作業を積み上げつつある村上さんに、僕は多くを教えられ、刺激された。また議論しましょう。

WEB建築討論 新シリーズ「建築と戦後70年」第1回平良敬一「運動の媒体としてのジャーナリズム」公開

“201611_toron_taira_keiichi"日本建築学会のWEB建築討論で、新しいシリーズ「建築と戦後70年」をはじめました。発足メンバーは当方と、橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和の5名ですが、今後、有志の方々に加わっていただき拡大していこうと思っています。シリーズの主旨は同サイトをご覧いただければと思いますが、インタビューによるオーラル・ヒストリーを軸にしながら、他の形式も交えつつ、「戦後」という独特の地場がいったいどのような空間であったのか、その証言と議論を公開・ストックしていくシリーズです。どうも建築分野では「戦後70年」はあまり議論を喚起しませんでしたし、これをきっかけに新しい歴史的パースペクティブと建築論を作り出そうという機運も高まっていません。しかし、「戦後」は確実に終わろうとしており、同時に、「戦後」が生み出してきたものを私たちは曖昧なままひきずり、また新しい文脈で半ば無意識に「戦後」的なものが噴出したり利用されたりしている状況は、正直にいって気持ちのよいものではありません。風通しが悪い。「戦後」を規定し、私たちがそれとどのような関係にあるのかをはっきりさせる運動は、今後の建築・都市への構想の努力を支援していく意義を持つのだと思っています。歴史は未来予測や占いではありませんが、現在へと至る過去の見通しを描く努力があまりにも少ないのは事実です。
 さて、第1回は今年齢90を迎える平良敬一さんを仙台に訪ねたインタビュー「運動の媒体としてのジャーナリズム」を公開しました。平良町(宮古)と赤羽(東京)、50年代建築論におけるNAUからの持続と分岐、運動の媒体としての雑誌、共産党コミンフォルム事件・・・。重要な証言が満載です。ぜひお読みください。われわれも大いに視野を開かれ、今後なすべき作業にも示唆いただきました。

法政大学建築フォーラム「建築と都市と民主主義を考える」20160927〜1206

20160824HUAF2016flyer「民主主義」というレンズを通して建築と都市を捉え直してみよう、という講演シリーズ。時宜を得たテーマですね。コーディネータは橋本純さん。第1回の湯浅誠さん、第2回の僕はもう終わってしまいましたが、今後も面白そうな講演が続くので是非。
このシリーズ、学部3年生向けの授業として位置づけられているようですが、公開講座でもあって、学生・院生から教員・社会人まで大勢聴講されてます。ポスターには書かれていますが、法政の専任教員がディスカッションの相手役をつとめるかたちになっています。そうそう、終了後はワンコインパーティもありますよ。

左の画像、クリックで拡大(法政大のページ)。

法政大学建築フォーラム:「建築と都市と民主主義を考える」
モデレーター:橋本 純(編集者)

第1回  9月27日(火)湯浅 誠(社会活動家・法政大学教授)「都市はだれのものか--公共性について」
第2回 10月11日(火)青井哲人(建築史家・明治大学准教授)「「民主主義」を建築はいかに翻訳してきたか--戦後史の見直しから」
第3回 10月25日(火)吉良森子(建築家・神戸芸術工科大学客員教授)「今、ヨーロッパで起こっていること--社会的空間を形成する主体から考える」
第4回 11月8日(火)饗庭 伸(都市計画家・首都大学東京准教授)「超民主主義社会における縮小都市」
第5回 11月15日(火)青木 淳(建築家・東京藝術大学客員教授)「建築の都市性について」
第6回 11月22日(火)内藤 廣(建築家・東京大学名誉教授)「3.11以後の日本社会と都市と建築の行方」
第7回 12月6日(火)水野和夫(経済学者・法政大学教授)「ポスト資本主義社会のイメージ」

 僕は「「民主主義」を建築はいかに翻訳してきたか    戦後史の見直しから」と題して話をしました。45年〜50年頃の文学・建築などでの文化運動(民主人民戦線)、50年代の民衆論・伝統論の構図、CIAM批判から出てくる個と全体の問題、それらの延長上に展開する60年代、そして70年前後のパラダイム・シフト、近年の50-60年代回顧ブームと70年代的問題設定の広範な微温的回帰といったところでしょうか。
 「時宜を得たテーマですね」なんて書きましたが、正直いうと、僕は「民主主義」×「建築」などという厄介なお題について、学部3年生からプロまでを含む聴衆に向けて60分で話せ、などという無理難題をいただいて頭を抱えました(抱えないはずがない)。そもそも「民主主義」が説明できそうにないのに、そこに「建築」というまたよく分からないものを掛け算して・・・ややこしすぎる! でも、逆に考えると、「建築」というあやふやなものが、「民主主義」というもうひとつの漠たる正しさによってその定義さえも規定される、あるいは少なくともどこに向かうと正しいとされるのかが規範化される状況があったのだと考えると、腑に落ちてくる気もしたわけです。
 今回、戦後建築史の主だった言説をざっと点検してみたところ、建築人の言説には、予想に反して「民主主義」という言葉はあまり出てこないことがわかりました(あくまで、ざっとですけどね)。浜口隆一『ヒューマニズムの建築』(1947)なんて「民主主義」を連呼していると思い込んでいましたが、じつは全然出てこない。興味深い発見でした。彼らは民主主義という「正しさ」の負荷を強烈に感じていたはずですが、それを直接言説化していないのです。おそらく、建築人たちはそれを、現実的な社会構築の問題というよりは、エリートたる建築人(とそのコミュニティ)が民衆との関係において自身をいかに正当に構えうるかというモラルの問題として受け取ったのです。まず、その翻訳の構図自体が問われるべきです。「人民のための建築(家)とは何か」という受け止め方ですね。
 今回、1948〜53年に中学・高校の社会科の教科書として広く使われた文部省編『民主主義』という本があることを知って、読んでみました。当時の中学校はレベルが高かったんですね。興味ある方、是非読んでみてください。この本で何よりも強調されているのは、民主主義は狭義の政治の問題というよりも、自律した個人としてのひとりひとりが、自己と他者とを尊重し、自由と平等を価値として生きる、そういう「精神」の問題である、ということです。やはりモラルの問題ですね。そして、そうしたモラルを個人と社会が共有できないと、独裁や全体主義を招き、「戦争と破滅」に至るのだと断言されています。
 「人民の建築」「民衆的建築」などといった内実のよく分からない言葉も、当時の認識のコードにおいては、たとえば国家や資本という「権力」への建築家の奉仕を反対側(悪)に置いて、人民・民衆への奉仕を正義(善)とするモラル問題であったことが理解できます。そういった回路において、こうした標語は、民主主義の建築的翻訳だったのでしょう。繰り返しますが、こういった翻訳の回路自体がまずは問われるべきです。戦後すぐから、リベラリストモダニスト)とマルキストの間で、どちらが「人民の建築」の正しい理解かを争うディベートがありますが、それはたとえ当人たちにとっては切実な問いであったとしても、彼らが「人民」「民衆」と呼んだ人々が関知するはずもない抽象論でした。
 50年代に入り、朝鮮戦争の特需のおかげもあって都市復興が動きはじめ、実際に建物がたつようになると、40年代の形式ばった党派的な論議が、実践とそのターゲットの問題へと書き換えられ、活気づきます。民衆論争・伝統論争がそれですね。これらは「民衆+伝統」論争として一体的に理解すべきものと思いますが、その読み直しはとっても重要な課題だなとあらためて思いました。あれはたんに狭義のデザインにおける国際的標準と伝統との接続の問題ではない。巨視的には、アメリ占領政策の保守化(いわゆる逆コース)の線と、ソビエトが各国共産党に指示した民族独立戦線の方向性とが交差したところに、戦後数年のあいだタブーとして抑制されていた戦前以来の「伝統」の議論が、50年代に「民衆」とくっついて噴出する背景があった。そして、広くとると1953〜57年の数年間に及んだこの論争は、「民衆+伝統」に対してどう構えるかという問いを突きつけ、あるいは少なくともそのような効果を持ちました。建築家だけでなく多くの建築専門家がどの線に自分の身を置くのかの選択を迫られ、急速に分裂・分岐していったように見えるのです。それは他ならぬ論争を仕掛けたジャーナリストたちも例外ではありませんでしたし、また戦前派の一部の人たちはこのとき決定的に時代遅れとなりました。それが、60年代の動きの背景的構図をなし、そしてパラダイムの変わる1970年頃(68年といってもよいですが)の断面にも大きな影を落としている。
 「民衆+伝統」は今日でも決して死んだ主題ではないでしょう。「民衆」はもちろんですが(たとえば「みんな」という言葉はすでに50年代後半には「建築界の民主化」や「人民の建築」を歌うなかで使われています)、「伝統」も各時代に思わぬかたちで回帰してきた(いる)のでしょう。それらは何だかんだ言っても知識層である建築人たちが何らかの時代状況と自分らの職能が置かれた環境のなかから、勝手に言挙げして自縄自縛に陥ることが多いのです。それは民主主義とほとんど何の関係もないでしょう。いま言いたいのは、自分の都合で立ち上げた命題を民主主義と混同しても捻れていくだけ、ということです。では建築専門家がまともな社会運営に果たすべき役割は何でしょう。新国立、豊洲あたりはその辺を問うてますよね。