都市史特論07/城下町〜日本的ゾーニングの基盤はいかにつくられたか〜

 日本の多くの都市に、近代の機能主義的ゾーニングですら依拠せざるをえない先行条件としての土地利用パタンがある。それが城下町の身分制ゾーニングだ。先日、古建築実習で学生を引率して一週間旅行をしたが、姫路城の天守から見下ろした市街地は、かつての武家地と町地との区分が手に取るように容易に読み取れた。こういうことは多くの都市で経験できることで、要するに城下町のゾーニングは今でも土地の規模や利用形態にほとんど直接的な影響を及ぼし続けている。
 城下町の形成過程は、地方領主の都市計画チームが試行錯誤を繰り返すドキュメントである。領内の〈境内〉や〈町〉をひとつの都市に集め、配置と再配置を繰り返すのだが、都市の統合・経営のためによりふさわしい物的計画を得るためには、都市ごと移動させることも珍しくなかった。また、そもそも〈境内〉とは寺社等の権力が商工業者や門徒を領域内に包摂して結合したものだから、領主としてはその結合を分解することは新たな統合の前提条件であったろう。寺院から分離された人々は城下に吸収されて町地を形成し、寺院は寺町に配置されていく。言うまでもないが、ゾーニングは政治なのだ(ちなみに検地もこういう作業とともに行われるからこそ政治的な意義があった)。
 城下町にあって寺町が都市周辺部に位置することは、一般には領主による管理あるいは軍事的転用の可能性などから説明されるが、一方では(授業では紹介し忘れたが)寺院はデベロッパーとして利用されたとみる考え方もある。中世では境内とともに市庭がもうけられ、そこにあっては贈与・互酬的な人間関係が神仏の名の下に断ち切られ、モノが経済的交換という新たな関係へと解き放たれる、ゆえに商人たちが集まり町が形成される。このような場の設定を請け負う特殊な職能者がいた。いわばプロジェクト・マネージャである(←網野善彦の中世史)。だから、湿地や海を埋め立てて境内をつくれと命じられれば、寺院はプロジェクト・マネージャを使ってエンジニアやワーカーたちを組織し土地造成工事を行い、商人を集めることができる。寺とともに町ができあがってくると、再び寺院をフロンティアの開発に差し向け、残された土地を町地へ転換する、そのようにして寺院は都市建設の進捗にともない徐々に周辺へ周辺へと追い出されていく場合があったらしい。江戸なんかそうなのだそうだ(←玉井哲雄)。面白いね。
 というわけで来週は玉井先生に従って江戸城下をクローズアップしたい。そんで幕末の遷都論にふれて終わり、って感じかな。いよいよ近代です。