厦門(アモイ)の“市区改正”

もちろん“市区改正”というのは明治の日本語(市街地改造というほどの意味)。海外では日本の植民地でしか通用しない。台湾では「亭仔脚」と呼ばれる連続した歩廊の町並みがつくられたことが知られる。さかのぼればシンガポールやペナンも、そして銀座の煉瓦街も歩廊付き。くだって中国東南海岸地域(福建・広東の両省)でもよく似たことが広く行われた。19世紀から20世紀前半の東アジア・東南アジアは、都市開発のあり方という点でもひとつながりの世界だったのである。
厦門では、辛亥革命(1911-12)後に設立された「市政処」が精力的に都市改造を推進した。旧城壁外に広がるスプロール市街地を改造し、世界につながる海港都市の面目を示すためだった。既存街路の拡幅、あるいは都市組織の切り裂き。恩田重直氏の研究によれば、31年頃以降の事業では、市政処は道路用地のみならず沿道の土地(奥行き15mほど)をも収用し、クリアランスしたうえで、新たに地割りして原所有者優先で払い下げた。土地を取得した者は、連棟式・原則3層の街屋(ショップハウス)を建設し、面路部に「五脚基」と呼ばれる歩廊を設けて開放する。この収用地(=街屋奥行き分)の裏には在来の都市組織が残されるので、街屋はそれらへのアクセス用の路地を挟みながら、また微細な土地のひずみを吸収しつつ、折り合いをつけて建設されてゆく。それゆえ、こうした路地を入れば街区内部は相当に複雑な様相を呈するのである。

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台湾では、植民地政府は道路用地だけを無償で取得し、切り刻まれて残った土地・建物はその所有者が自分で繕ったり建替えたりしなければならなかった。そのとき連続した歩道(亭仔脚)もつくらせる。政府は道路(+下水道)を整備すればよい。厦門で沿線の土地まで収用する事業方式が可能だったのは、おそらく華僑資本が大々的に投入されたためだろう。買い戻した土地に建設された街屋も台湾に比べて立ちが高く、意匠もエレガントだ。尺がフィートなのも(たとえば五脚基の奥行きは8フィート)、英領海峡植民地とのつながりを示唆する。
色んな意味で植民地下台湾との共通点と差異が見えてとても面白い。
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