ミクロな実証とマクロな枠組がいよいよ立体的に結びつきつつある・・・台湾調査2014沙仔崙

 2014.08.09〜08.24 台湾。学生たちとみっちり調査をしたのは8月11日〜21日で、そのうち2日はエクスカージョンだったし、初日と最終日は半日だから、まあざっと1週間の調査だったことになる。今年のターゲットは彰化県田中鎮の沙仔崙Sua-a-lun という街だ。いや「街」だと思って調査に臨んだら「村」だったので腰が抜けた、というのが初日で、そこからモリモリと色々なことが分かっていくというちょっと今までにない経験をした。 (*以下、地名にアルファベットで読みを付しているが今回はすべてホーロー(ミンナン語)にしてみた。
 そんなお粗末な、と思われたであろう。はい、そうです。ぼくたち、周到な準備をして調査に臨むなんて滅多にない。でも研究の枠組みというものは当然ある。すぐ近くに田中Tian-tiong という街があって、これは20世紀初頭に新たに建設された都市。もとは地名が田中央であったことからも察しがつくように水田のただなかであった。昨年はこの田中という街の調査をして、漢人が何もないところからどうやって都市を立ち上げるのかのひとつの重要なドキュメントをつくる手がかりを得た。彼らの理念的な都市像と、実際の開発手法、土地所有=経営、社会=権力構造などが立体的に結合した都市概念が描き出せるだろう。さて、以前から知っていたことではあるが、この街には前身があって、それが1898-99年の両年にわたり激甚な水災・火災に見舞われたため田中に移動してきたのである。この前身の街こそが沙仔崙であり、今年はこの街を調べることで、旧街と新街との関係すなわち都市移動のダイナミクスへと視野を広げようと考えたのである。ところが・・・沙仔崙は街ではなかった。正確には、アーバンな類型のティシューを備えていなかったのである。

P8180549[fig.01] 沙仔崙は、この一本の道路を軸とし、これに沿った長さ三〜四百メートルのリニアな集落なのだが、この写真のごとき景観を見れば、まあ小さいながらもいちおう都市的なティシューだなと思うよね。昨年、車でざっと廻ってもらって下見したときは、僕もそう思った。けれどやっぱり自分の足で歩かないうちに判断しちゃいかんということを今年は痛感した。次の写真をご覧あれ。

P8200215[fig.02] うわ、マズイと思ったね。新しいRC町屋の間に挟まれるように、古そうな三合院のカケラが残っておるではないか。裏へ回り込んでみると・・・

P8120284[fig.03] はい、三合院。正身の左右から護龍という腕が伸びてコ字型平面をつくる三合院の、片方の肩から腕にかけての部分が残っている。つまりもともとは整った三合院が立地する、正方形に近いプロポーションの大きな屋敷地があって、それが比較的近年(過去30〜40年の間に)細分化されていった結果が、fig.01のような状態なのであろうことが直ちに理解される。

P8150259[fig.04] もうちょっとカケラの写真をどうぞ。写真の左に見える赤煉瓦が正身(の中央部)で、右に見える赤煉瓦は左護龍(の中央部)。うひゃ、ぶつ切りにされているではないか。こういうのがよく見ると集落のあちこちに転がっている。だんだん面白くなってくる。

というわけで、最初の思い込みを否定するのに30分も要しなかった。沙仔崙は紛れもなく農村的な集落だったのだ。次に立てた仮説は、20世紀初頭の遷街で住民が田中へ移ってしまったために沙仔崙は農村化したのだろう、というものだ。ここで「棄てられた都市」というキャッチフレーズをとりあえず立ててみたのだが、歩けど歩けど、百年ほど前には都市だった、とみなせる根拠は見つからない。アーバンなティシューとルーラルなティシューとは基本的に異質なものであって、かつてアーバンであったのなら僕らにも察知できる何かがあるはずだが、それが一向に見つからない。

P8120220[fig.05] 初日夜、宿の食堂にてミーティング。「棄てられた都市」というテーマはいちおう留保して、現在の公図(地籍図)をじーっと睨んでみた。アミダクジをみれば誰だって後に入れたのはタテ線じゃなくヨコ線だと分かるよね(線の勝ち負けという図的な理屈)。それと同じ要領で新しく短い線から順次間引いていけば、かなり蓋然性の高い地割の復原図が得られる(もちろん仮説)。それを皆でやってみると、多少の解釈のズレはあっても、大局的にはどう見てもこりゃ正方形に近い元来のロットが相続等のために分割されてきたと見るのが適切だなと判断できる。都市が棄てられたから農村化したのではなく、沙仔崙ははじめから農村だったとみてまず間違いない。

 ここで一気に視野を広げてみよう     この地域は、台湾西部平原の中央を流れる濁水渓Lo-chui-khoe(螺渓Le-khoe とも)の流域としてつかまえられる。中央山脈から丘陵部を走った河川は、平野部へ出ると土砂を大量に吐き出しながら流速を下げ、複雑な網状の流路をなし、複数の流れに分かれ、やがて蛇行し、最後に三角州やラグーンをつくって海に注ぐ。このうち、山から平野に出た後、15〜20Kmくらいの間は3本の主流を擁する見事な扇状地が形成された(20世紀の治水工事により今は1本の主流に集約されている)。台湾は台風の通り道だし、雨期の雨は凄まじい。ひとたび大雨になれば流れは暴れ狂い、溢れ出して流路を変える。これを繰り返して砂礫を均等にばらまいたから(水圧をあげるとホースが首を振るイメージ)、濁水渓の扇状地はとても美しいかたちをしている。
 ざっくり言うと、濁水渓流域では18世紀を通じて大陸からの漢人移民・開拓が進み、大陸の泉州Choan-ciu や厦門E-mng などとの交易を担う沿海部の港市(鹿港Lok-kang)、平野部穀倉地帯の集散拠点(多数)、山地資源の集散拠点(林圯埔 or 林杞埔 Lim-ki-poo)、これら全体を統治する行政拠点(彰化Tsiong-hua)といった諸カテゴリーの都市も育っていった。思い切って要約すると、この世界は(1)地理学的には濁水渓流域、(2)行政的には彰化縣城管下、(3)経済的には鹿港経済圏として規定できる。
 経済的支配力は対岸貿易港たる鹿港が握ったが、しかし、その「鹿港経済」ともいうべきものが内陸部にまで浸透するには中流域=扇状地内に立地する小規模都市群の存在が不可欠だったことも事実である。最近ぼくらが注目しているのはこれらの都市群である。言い換えれば、繁栄する対岸貿易港(鹿港)と、山地エンポリアム(林圯埔)との間に立地して内陸部に物流の血液を行き渡らせる、内陸中流域の河港都市群である。これらは荒ぶる扇状地の水害リスクに悩まされつつ、しかし扇状地に立地し鹿港経済圏のサブセンターたることによって経済的に存立するというアンビバレンツに規定された都市群だと見ることができる。鹿港が景観的にも社会的にもほとんど泉州厦門とそっくりの街だったとすれば、むしろこれら内陸河港都市群こそ、地理学的に厳しい環境に適応し、何度も破壊と再生を繰り返し、入植者たちの貧困や闘争を体現した台湾的な都市だったということもできるのではないか。

 18世紀中に姿を見せるこれら内陸河港都市群のひとつに東螺Tang-le という街がある。やはり細かい話は省くが、沙仔崙はこの東螺から19世紀の初頭に分裂し移転してきたある集団の流れ着いた先である。東螺ものちに移動して寶斗Po-tao (のちの北斗)になるのだが、それはさておき、沙仔崙は再び19世紀末に壊滅的被害を受けて田中に移った、というのがそれなりに知られている歴史の筋書きだ。だから沙仔崙もまた、歴史のなかで変転めまぐるしい小さな内陸河港都市のひとつだったのだろうと思い込んでいた。
 ところが、それがルーラルな集落だったことが分かったのである。ただし一方で、屋敷地が一本の道路に沿って整然と並べられており、かつ、地割のサイズに計画性がうかがえることも特徴。ここから立ち上がる仮説は、次のとおり。

(1)19世紀初頭に東螺街から分裂した集団は、おそらく他集団との闘争(いわゆる「械闘」)に敗れて水運の権利を失い、商業を放棄し、沙仔崙に土地を取得して計画的にルーラルな集落を営んだのではないか。
(2)沙仔崙とは直訳すれば“砂の山”の意味で、台湾には同様の地名が多数ある。おそらく河川敷(増水時には冠水する)のすぐ外側にできた自然堤防的な砂礫の微高地がそう呼ばれており、彼らはその微かな線状の高まりを選んで移転先を決めたのだろう。
(3)その後ようやく安定した沙仔崙の集落も、19世紀末に再び大洪水で流され、応急的に再建された集落も火災で焼失してしまう。これを機に、沙仔崙に隣接する田中央に土地を入手して集住地を移転させる事業を決断したのだろう。
(4)新街建設を主導したのは沙仔崙の有力者で、彼らは移住同胞を率いたのみならず、濁水渓河系のネットワーク内から移住者を募って、最初から都市的集住地を創出する開発計画を練った(このときの市街計画のプランがきわめて興味深いのだがそれはあらためてどこかで発表するつもり)。このとき主導者らが植民地権力による鉄道駅開設の情報を得てそれに近い立地を選んだとの説もある(実際、田中は植民地期を通じて鉄道街として発展)。
(5)いま沙仔崙に残る三合院のカケラは、田中への遷街後も沙仔崙に残った者たちと、空になった地所を購入して周辺から移住してきた者たちとが20世紀前半から中盤にかけて建築したものであろう。

 およそこうした仮説が調査1〜2日で立った。いつもそうだが、ここまでは速い。しかしこれを検証・修正するには馬鹿馬鹿しいほどの労力と時間が要るし、たくさんの方々を巻き込み、面倒をお願いすることになる。
 今回の調査期間中には、まずカケラの実測調査と詳細な聞き取り調査によって、20世紀中盤の集落景観を復原することができた。予想通り、三合院だけが並ぶ完全にルーラルな集落景観の復原図が得られた。この経験は重要だった。類型性(タイポロジカルな性質)を分有する建物のカケラ(オブジェクトレベルの断片の残存)と、それに対する介入のパタン性(メタレベルの変化の論理)がつかめれば、論理的な類推によって数十年遡る程度の復原はかなりの精度を持たせうることをあらためて実感。
 20世紀前半については植民地期の行政書類ならびに主要家族の族譜(家系図)を付き合わせることによって概況をつかみつつある。植民地行政は遷街直後の沙仔崙の土地・建物の状況を記録しているが、それはぼくらがまったく予想しなかった集落の実態を指し示している。
 19世紀の地域史に関する仮説は、調査期間中に専門的研究者の方々に色々ご教示いただいて修正することができたし、またより大きな視野で展開すべきテーマも見えつつある。
 たったの1週間ほどであったが、意義深い調査だった。

 地域の皆さん、とくに沙仔崙の住人の皆さんにはほんとによくしていただいた。謝謝。成果は法政大高村雅彦先生代表の科研研究会でまず報告し、来年の建築学会大会で発表しますので、それを持ってまた来年うかがいます。

P8190010[fig.06] 後日、沙仔崙在住の方から提供いただいた約40年前の写真。正身がRC町屋型に建て変わっているが、護龍(腕)は残っている。これが竹造であることに注意されたい。聞き取りによると50年前までほとんどの家屋は竹造・平屋建・茅葺だったという。
 一昨年に調査した北斗には竹造町屋がたくさん残るので、濁水渓河系は20世紀初頭まではほぼ全面的に竹造家屋に埋め尽くされていたとみて間違いない。南部はその割合がもっと高かったことを示す総督府調査がある。これも従来の台湾建築史・都市史で看過されてきた重要問題。

P8190066[fig.07] こんなこともやらせていただいた。廟での聞き取りシンポジウム。

P8150318[fig.08] 皆、疲れてきたみたい。沙仔崙の大廟(天受宮)前にて。
 この場所にはもともと沙仔崙の中心となる媽祖廟「乾徳宮」があった(媽祖=天上聖母は台湾でもきわめてポピュラーな航海の女神)。それが遷街によって田中に移され、以後半世紀ほど空地になっていた。現在の天受宮は1950年代の創建で、玄天上帝を祀る。

P8200222[fig.09] 調査最終日の一枚。通い詰めていた食堂「大象」(象さんの意)のオヤジ夫妻と。学生の皆もお疲れさん。