復興って実は新しい課題なんじゃないか。

最近読んだ本。
津久井進『大災害と法』(岩波新書、2012年)
北原糸子『地震の社会史:安政大地震と民衆』(講談社学術文庫、2000)(←三一書房、1983)
北原糸子『関東大震災の社会史』(朝日選書、朝日新聞出版、2011)
北村優季『平安京の災害史:都市の危機と再生』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2012)

 津久井進氏の本は災害関連法制の基本的知識と現状認識が非常にわかりやすくバランスよく整理された良書。復興に関する著者の立場を強く打ち出した本というわけではないし、きっとそういう書き方を心がけられたと思うが、それでも被災者・被災地域の側に立てという基本的思想と政治的立場は滲み出ている。あらためて確認したのは災害関連法制は「災害対策基本法」をはじめ、防災と緊急対応を中心としており、復興についてはまともな法がないこと。
 これはけっこう重要なことなんじゃないかと思う。
 なぜ復興の法がないか、考えてみよう。おそらく復興が固有の社会的問題系・法的問題系をなすという認識が不要だったからだろう。というのは、災害復興といえども平時のインフラ整備と違わないものを大規模にやるだけのことだからだ。災害をチャンスと捉えて資本が活動しやすい近代的インフラをつくることは経済政策にも防災対策にもなり、民間が安全に利益追求できる環境の整備に公的財源から支出するのは当然と考えられ、災害で露呈する複雑な社会的矛盾も経済成長や文化的な暮らしの獲得といったものの中に吸収させて見えなくすることができたのであろう。
 平安京でも江戸でも、都市の変容あるいは再構築に対して災害が担った歴史的役割は大きい。ただ、復興という概念に通じるものはなかったかもしれない(要検証)。ただ、江戸は災害時に都市建設を推し進めた。近代に入ると資本主義と結びつくかたちで「復興」概念が出て来るのだろう(要検証)。その後、日本は国力をつけるにつれて、災害復興プロセスを官僚機構と建設・産業資本の手にどんどん回収していく。その方が、経済成長と防災対策を一体的に効率よく進めるための災害復興、という論理をより徹底できるから(たとえば関東大震災のときのように被災現地に自力バラックをつくらせてしまうと基盤整備に苦労するので、20世紀後半は応急仮設の団地をつくるようになった)。
 というわけで、“災害復興 disaster recovery” は、それと伴走し、一体的な論理を構築してきたもの(経済成長に支えられた福祉国家、と表現すればよいだろうか?)が力を失いはじめたことによって、いま初めて固有の問題系として浮上したのではないだろうか。
 ・・・というのが最近のわたしの仮説(単純にすぎるとは思うけど)。

 津久井氏が災害復興基本法が必要だと主張されるのは至極まっとうなことだと思う。と同時に、私たちは建築あるいは建設一般に関する基本法を必要とするに至ったのではないか、ということにも気づく。