2012年度の研究室キックオフ/保存機械の話

 今年度のゼミがスタートした。D2=2名、M2=5名、M1=5名、B4=8名の計20名。昨日(20120412)がキックオフ飲み会。新4年生たちも楽しみだ。
 飲み会後半は滝沢君、陳君(ジョージ)と、保存とは何かをめぐって議論。話の枕に、フィリップ・ディック(仁賀克雄編訳)『地図にない町』(ハヤカワ文庫)所収の短編「the preserving machine」を紹介した。

 ラビリンス博士は現代を古代ローマと重ね合わせ、すべての文明は衰退・滅亡する、美しき文化もすべて滅ぶという想念にとりつかれ、とりわけ自らの愛する音楽を保存したいと願って "the preserving machine" (保存機械)をつくらせる。モーツァルト、ベートーベンやバッハの楽譜をその機械に放り込むと、もう一方の口からはそのつど鳥や昆虫や獣が出て来る。それら生き物を、博士は自邸の裏の森に放った。つまり博士は、preservation(保存)という問題を、その対象物に生命を持たせることで、自らサバイブさせるという方式で捉えようとしたのである。
 しかし博士は森のその後に恐怖を覚えはじめ、訪問者である「私」と2人で、楽譜の変換態たちの帰趨を確かめることにする。すると、鳥や昆虫や獣は森のなかで自らをさまざまに変貌させ、あるものはすでに屍となっていた。おそらく生態系における競争が彼らにもたらした事態だった。ラビリンス博士は「私」とともにやっとのことでバッハのフーガの変換態であり、またその馴化態であるところの、刺の生えた金色の球のような生き物をつかまえ、そして preserving machine を逆向きに通すことで楽譜に再変換した。博士自らピアノで演奏したその楽譜は、断片的にフーガの痕跡を残しながらも、全体としては支離滅裂で無意味な音列だった。

 滝沢君はこの物話の含意をすぐさま悟り、切実に(!)面白がった。彼自身が、伊根浦の重伝建地区における凍結型保存と産業や生活の変化とのあいだにあるギャップについて研究し、凍結に代わるオルターナティブな保存論を卒業設計で提案しようとしたからである。彼はある意味でラビリンス博士のように、凍結された町並みに生命を与えてサバイブさせようと考えたのである。いや、そこまで徹底できなかったし、できなかったことが彼の良心でもある。しかし、議論をするうえでは極端な論理を提示した方が、軸がはっきりし、その中間態も位置づけやすくなって生産的である。
 この寓話はいろいろな事例にあてはめて考えることができるが、ここでは江戸/東京のことを考えてみたい。松山恵さんの最近の研究を踏まえて言えば、江戸的な安定性をしばらくは持続させていた東京も、おそらく明治30年代にこのような machine をくぐらされて獣の森と化したのである。「支離滅裂で無意味な音列」とは、現在の東京である。ラビリンス博士はおそらく音楽の変貌に落胆したであろうが、今日の私たちは東京をカオスだと嘆いたり、またエギゾチシズムに満足したりしても仕方がない。重要なのは、都市を保存する(=都市を生き残らせる!)ために考案された「機械」の機構と、そこを通るとき”美しき”町がいかにして生存競争を闘う獣へと変換されたのかを知ることである。
 しかしこの寓話には、解読=展開される「楽譜」という記譜の形態を、一個の生物個体へと変換するところに奇妙さがあることも見逃せない。その意味では江戸が東京になるといったことはこの物語には正確にはそぐわないのかもしれない。実際、著者ディックは楽譜を原基的情報=遺伝子になぞらえているようにも思われる。生物は、ある環境コンテクストのなかで遺伝情報を展開して自らの形態をつくる。遺伝情報そのものは環境の影響を限りなく受けにくい方が種の同一性保存のために都合がよく、逆に、環境条件に応じて形態展開の方向性をそれなりに修正できる余地がなければリジッドすぎて死滅しやすい。前者が系統発生(種の継承)の問題であり、後者が個体発生の問題である。そもそも楽譜では破かれたり焼かれたりすればゼロになるが、妙な変形を生じることもないのだ。
 ラビリンス博士は、遺伝情報を一個の個体に変換してしまったのであり、本当の奇妙さ、恐ろしさ、滑稽さは、この短絡(ショート)にある。あるいは、生物における系統発生と個体発生の二重性を消去してしまっているといってもよい。

 ちなみに、自らの実験の結末を知った博士が、彼らは一体ずつしかいないからやがて絶滅する、そのようにしておいてよかった、と話す箇所がある。博士は楽譜の変換態たる生き物たちの再生産(生殖)については、さすがに一線を越えることはできなかったのである。