ベイトソンの分肢則:サイバネティクスとトポロジー

bateson's_ruleよく読まれている『精神と自然』(1979)に比べて、著作集『精神の生態学』(1972/新思索社1986/改訂版2000)所収の文章は学術的なものから論争的なものまで、ベイトソン流のドライな思考は徹底されているものの決して平易とはいえず、数年前にかなり難儀して読んだ。しかし、この著作集には有名なダブルバインド理論の他にもとても面白い文章がたくさん入っていて(「冗長性とコード化」etc)たいへん刺激的である。
そのひとつに「「ベイトソンの分肢則」再考」(1971)という一見奇妙な論文がある。タイトルの「ベイトソン」はグレゴリーの父、ウィリアム・ベイトソンのことで、左のイラストは19世紀末にウィリアムが収集していた膨大な数の奇形標本のひとつ。昆虫の左身にある肢が2本の余計な分肢を生じて3本になってしまっている。当時、奇形は正常な秩序からのランダムな逸脱としか考えられていなかった(ランダムな変異はダーウィン進化論の前提でもあった)。そういう時代に、父ウィリアムは「変異の規則性」を考えた。この転倒こそサイバネティクスだと息子は言いたいわけだ。なぜなら、奇形に規則性を見いだすことは、つまり、ある異常なきっかけの後も、生物自らがあらかじめ持つルールに則って形態を生成しつづけたがゆえに奇形を生じる、すなわち生命はシステムであるがゆえに奇形という応答すら示しうる、と考えることなのだから。(*サイバネティクスの確立は「分肢則」の半世紀以上後のこと、念のため)
我々ヒトの腕で考えてみよう。身体の左には、きちんと左仕様の上腕が生えてくる。上腕の断面も対称ではない。筋肉のつき方も内と外では違い、肘関節は一定の方向にしか回転しない。このような限定が各所で行われる。最後は指の延長が禁じられて端部がつくられ、その外側に皮膚と異なる爪を生成して腕は終わる。どんな生物も卵からはじまって、ひとつの軸面(亀裂)が入って左右対称になるが、これはもともとの全方位対称性を禁ずる一段回目の限定と捉えられる。以後の形態生成は、シークエンシャルに次々に与えられる対称性の禁止という「限定」に沿って、所与のシステムが自動的に発動していくプロセスなのだ。どこかで限定を指示する情報が欠落すると、その限定が抑制していたはずの一段階下の対称性が発現してしまう。千手観音はやばいな。
私たちにとって重要なのは、こうした「限定」がトポグラフィカル(地誌的・形態的)にではなく、トポロジカル(位相的・関係的)にガイドされていることだ。上のイラストでは、余分の肢(RとL’)は、正常な左肢(L)が伸びていく方向に対して垂直な軸について対称に生じている。RとLも対称的な関係になる。3つの肢は同一平面上にある。どうやら腹背・前後・左右、体芯ー先端、中心ー周縁などの軸、そしてそれぞれの軸方向の値がゼロとなるような鉛直面・・・といったものが形態生成にあずかっているらしいのである。このような差異(関係)の束で組み立てられるのがサイバネティックな世界だとすれば、非サイバネティックな場では力や衝撃によって出来事(形態生成)が説明される。都市はサイバネティック・システムとして描けると僕は思っているが、災害は非サイバネティックである。力が直接に形態そのものを変形させる。しかしそのトポグラフィカルな痕跡も、サイバネティック・システムから見ればトポロジカルな情報(限定の欠落や過剰)に他ならないこともありうるわけで、その場合、再生=自己修復というサイバネティックなプロセスは奇形的な形態的ソリューションを生み出す。たぶん間違ってないと思う。