閩南(福建南部)調査の途中報告を。

晦日の今日は泉州。ビジネスホテルをとったらネット接続良好なので、年が明ける前にここ1週間の日誌を取り急ぎ上げることにします。みなさんよいお年を。

PC318705*写真は泉州開元寺門前の路地にて。

12月25日(金)台北(桃園)→厦門(高崎)。宿に入る。陳正哲兄と合流。まず厦門大学訪問。広大なキャンパスに無数の宿舎(教職員・学生)が立ち並ぶ。コロニアル+閩南の立派な建物だがベランダには洗濯物がずらり。すばらしい。宿に戻って考古学・民族学の角南さんも合流。厦門の歴史に詳しい葉先生を御自宅に訪ね、さっそく厦門周辺の一般的な起居様式等について議論。先生と一緒に夕食。沖縄出身で厦門大学に留学中のKさん加わる。宿に戻ってさらに厦門大学のCさん加わり打ち合わせ。

12月26日(土)葉先生に案内いただき厦門市海滄区へ。まず霞陽村という集落。宗祠や三合院が数多く残る。眠床のいくつかの形式を実見。つづいて新街。古い街屋群。間口が3〜4mと狭い。金城、鹿港、台南五條港などの街屋とよく似る。内部も見せてもらう。たまたま居合わせた職人にも話を聞く。近年の新築住宅では靴を脱ぐ習慣もかなり普及しており、和室のごとき揚床の部屋をつくることもあるという。

12月27日(日)厦門市思明区の旧市街を歩く。辛亥革命後に設立された市政会による道路建設とともに「五脚基」のある街屋が建てられた(五脚基は私有地の面路部に開放された歩廊。いわゆる騎楼。台湾では亭仔脚)。華僑資本による。開元路が1920年に建設された以外は20年代後半か30年代前半に集中。街路幅員9m、五脚基は奥行き2.4m・高さ3.6m(梁下)。同時期(日本植民地)の台湾に比べると街屋の立ちが高く、また街路設計が滑らかな曲線をなすため、町並みの印象はかなり異なる。二階以上も売買が進み内部の垂直導線はかなり複雑な様相。市場、廟などで話を聞く。

12月28日(月)フェリーで鼓浪嶼へ。アモイ島は1841年のアヘン戦争で英軍に占領され、42年の南京条約で開港されたが、1902年に共同租界が設置されたのが、ここコロンス島(鼓浪嶼)。旧ドイツ領事公邸を改装した宿に入る。欧米および日本関係の建物の他に、もちろん華僑系の建物が多く、中心部には小さいが市街地もある。保全活用のための改修工事がラッシュ。資料館等の入場料も異常な値段でかなり滅入る。

12月29日(火)朝、正哲兄は台湾へ帰る。我々は厦門から車で北上。途中の集落で民家を訪ねいくつか房間を実見。目的地の進城県培田の村ヘ。立派な宗祠・家屋その他がよく保存されているが、修復や整備がかなり入っている。ここもすぐに観光地に変貌し、住民の多くが集落の縁辺に建てたコンクリート2〜3階建ての家屋に移り住むようになるのだろう。4時頃に集落を出て湖坑へ。いわゆる福建土楼客家土楼)を見るため。運転手が2時間というので安心していたが雨と工事のため悪路となり5時間かかる(途中、脱輪のアクシデントあり、冷汗)。土楼のなかの房間に泊めてもらう予定だったが門限に間に合わないので近くの民宿に変更。土楼に住み込んで調査中のKさん(都立大・文化人類学)と飲む。

12月30日(水)まずKさんが住んでいる土楼へ。直径55m前後、4層。版築の土壁を保護するためだろうが軒が3.6mも張り出している。占有形式が1階厨房、2階倉庫、3〜4階房間というかたちで垂直になるのは台湾でも厦門でも街屋の基本。起源と無関係に論じるなら、土楼を展開すれば街屋の町並みのようになる。土楼の外には、ちょうど土楼の2〜3スパンを切り取ったような2〜3層の独立の住家が建つ。これが新しい家屋の一般的形式らしいが、技術的にも空間形式的にも土楼とまったく連続的。土楼とは何か。

12月31日(木)泉州へ。宿を探して入る。宿の目の前にある銅佛寺へ。決して古い建物ではないが穿斗式の架構がよく分かる。福建の建物は、日本でいう大仏様と禅宗様の複合。もちろんこの表現は歴史的には倒錯している。大仏様はむしろ福建の地方様式の“ある部分”を強引に肥大化させた実験の産物と考えるべきだからだ。つづいて文廟。ここは抬梁式の重檐・廡殿式。次は清浄寺北宋創建のモスク。1009年建設、1310年改修だが現在は廃虚。その横に閩南式のモスクが併設されている。最後は開元寺。13世紀の石塔が残る。開元寺門前の東街はかなり面白い。いくつかの形式の街屋あり。