「全球都市全史研究会」はおもしろくてむずかしい研究会です。

建築のみならず歴史学政治学、経済学などの多様な分野の方々が都市(とくにメガ都市)の環境へのインパクトという問題に挑む、村松伸さん主宰の研究会(メガ都市プロジェクトの一環)。今日はその第3回で、テーマは「生態系から見た都市とそのネットワーク:海域世界を巡って」。1日がかりで5名の方が講演され、参加者全員で討議というプログラム(詳細はこちら)。
ちょっと本題からは外れてしまうのだが、面白かったのは、アラブの華人などとも言われるハドラミーの人々の広域な移動とネットワーク形成に関する栗山保之氏の研究で、史料として用いられている紳士録のこと。イスラム世界では、人物誌という知の範疇は、まず生前のムハンマドの言動をハディース(言行録)にまとめていくのに付随して、伝承者自身の素性を精査する必要から発達してきたのだという。ハディースは、ときにクルアーンコーラン)より優先されることもあるほど重要な聖典で、その個々の記述にすべてAが言った、Bが言った・・・と人物名がつくのだが、その正当性を問う史料批判の方法として、伝承者の系譜や経歴、素行や性格などの情報を収集・記載するというわけだ。
で、たとえば『記憶力の悪い人』みたいなタイトルの紳士録(なのか?)もあるそうだ。そこに名前が載った人の伝承は当てにならんということ。うわあキツイ。僕なんか健忘症だから絶対こっちの部類だな。
さて今日の本題についてだが・・・どの方のお話も非常に面白かったのだが、やはり僕にとって絡みにくいと思ったのは、ネットワークが議論の焦点になると、ノードたる都市は「点」に後退してしまいがちなことと、構図としてはネットワークの管理者(権力)があってそのネットワークを支えるために個別の都市がセット(条件設定)される、という話に見えてしまいがちなこと。
籠谷直人氏は、国家権力は港市で生じる余剰・利潤のすべてを召し上げはしないということを繰り返し指摘しておられた。商人が利潤追求できる自由(というインセンティブ)を与えなければ都市そのものが衰弱してしまう(税収もくそもない)。港市は国家に管理されながらも一定の自由が保証され、小さな空間に限定されてはいるものの複数の世界に接続された圧倒的な開放性みたいなものに特徴づけられる(と思う)。この条件が、都市をどのように動かしてゆくかを語れたらきっとさらに面白かったのではないかと思う。
国家が都市をセットするとしても、そのセッティングのなかで都市が一定の自律的なシステムへと移行しないはずがない。どんな組織(有機体も含む)も、それ自身の存続という命題を抱える。その究極の命題を、多数の人間や機関へと分散させ無意識化しつつ、システムとして機能させるのが都市だろう。すると、ネットワーク存立のためにセットされた都市も、こんどは都市自身のためにネットワークを動員するという局面だってあるだろう。メガシティへの成長も、巨大な力によるセッティングに対して、その上での自律化が働かなければ起こりえない(東京は権力の首座であり、なおかつ国家の手に負えないほど勝手に動いている)。この種の自律性がどのように生じてくるのかがやはり問うべき課題かと思う。
もうひとつ、ネットワークは港市の存在理由だが、都市がそこから切り離される場合を考えるのは面白い気がする。そのとき都市はどう反応するか。宿駅が農村になるように、港市は漁村になるのか。しかしそうでない転換をなしうる都市もあるのだろう。それは都市が自前の産業を持つか、後背地を開発するかした場合だろうが、実はそれこそが大きなリスクにもなる、というのはなるほどと思った。港市の自由な開放性は、第一次産品を持たないことにあるからだ。