「自然」の科学・技術・行政という屈折したモダニズムはいかにして産み出されたのか。

国学院大学AMC棟にて行われた「第5回 渋谷学研究会」に参加した。

第5回渋谷学研究会「近現代東京の「鎮守の森」をめぐる地域史―多摩と代々木の事例から―」
発表1:畔上直樹氏(首都大学東京東京都立大学助教
 「明治・大正期多摩における「鎮守の森」植生景観の地域史的検討」
発表2:今泉宜子氏(明治神宮国際神道文化研究所主任研究員)
 「明治神宮とそのとなり:練兵場・ハイツ・公園の視点から」

_0022328主催者サイドの藤田さんにご案内いただき院生2人(G, K)と参加したのだが、まず畔上さんの発表では僕の名前がレジュメでも口頭でも頻出して恐縮してしまった。畔上さんは多摩地域の村社クラスに残る史料等を使って境内の樹種とその変容過程を国家の政策、技術者の理念型、地域住民の運動、そして都市化+帝国化という近代日本の趨勢とが織りなすダイナミクスとして読み解く可能性を精緻に示された。現在の多くの神社境内は照葉樹林(温帯の常緑広葉樹林の一タイプ)を主体とする暗く深い常緑の森である。これが関東・関西等では極相、つまり放っておけばそうなって落ち着くという森林の「自然的」状態に近いために歴史理解をややこしくしているのだが、実は近世までの多くの神社境内がスギ、マツを主体として雑木が混じる、里山的な経済的機能を備えた人工林であったことは実証的に明らかなのだという。つまりこの間に何らかドラスティックな変化が生じたことは間違いないのだが、すでにしてそのプロセスの屈折した奥深さは十分に予感されるところだろう。そして、都市のなかに「自然な人工林」をつくり出すという明治神宮プロジェクトの経験が、このプロセスにどのように位置づけられるのかがもうひとつの大きなテーマとなる。拙著『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館、2005/学位論文=2000年3月を後に本にしたもの)では樹種も“常緑樹”といった程度の曖昧な括りしかしていないし実証作業よりも議論構築を急いでしまったのだが、畔上さんの作業はその仮説的ストーリーを実証的にほぼ裏書きするものになっていて、何というか、たいへん有り難かった。つづく今泉さんも同書のみならず僕の角南隆論とか明治神宮論(万博・オリンピック関係)などを読んでくださっていて再びビックリ。建築の世界ではほとんど反響がない一方で、歴史学や宗教社会史など各方面の多くの方が注目して批判的検証をしてくださるのは本当に嬉しい(しかしこのギャップはやはり奇妙な気分ではある)。

・・・というとあまりに手前味噌なまとめになってしまってマズイですね。神社の森というのは都市の重要な構成要素であることは間違いなく、森は内側で「建築」(社殿)と接し、外側で「都市」に接しているのだから、私たち建築の分野でも真面目に考えるべき問題。学際的な研究のムードも出来つつあるし、きちんとやっていかないと取り残される。とにかく僕としては、最近たまたま角南の最後の弟子である西本氏から貴重な御本を2冊お送りいただいたところだし、やはり東京に来た縁も大事にして、神社研究も再開しなさいヨと今日も背中を押された気分だった。
最後にひとつお知らせ。この「渋谷学研究会」の次回(第6回)では私たちの研究室が坂倉展を契機にとりくんだ渋谷研究についてお話をさせていただくことになりました。詳細決まりましたらまたこのブログでも告知します。