卒業設計公開講評会終わる。

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0201.Sun ゲスト・クリティックに大野秀敏さんと中村拓志さんをお迎えして2008年度明治大学建築学科卒業設計公開講評会が行われました。何と午後1時に開始して19時半頃に終了という長丁場。例年ノミネートされた12作品が発表されるので、学生の間でも「12作品」という呼び方が普通になっているようですが、今年は全体としては出来映えがやや低調だという先生方の意見が多く11作品に抑えられました(ルールでは10〜12作品)。しかし講評会そのものは例年より盛況かつ議論が活発で相当盛り上がったようです。そして、堀口賞1作品・学科賞1作品・優秀賞3作品、二十数名の兼任講師が選ぶ生稜賞1作品(今年はノミネート11作品以外での選出となりました)、すべてが決定されました。僕は神戸芸工大時代以来、久しぶりの卒業設計でして、審査の醍醐味も個人的にはたっぷり味わいました。
では僕の概評です。
卒業設計とはおよそそういうものなのでしょうが、多様性、仮設性、象徴性といったキーワードで括れそうなものが多いんですね。でもこういうものに安易に直行してしまうといくら上手な人でもやっぱり幼稚に見えてしまいます。たとえば、多様性というのはある意味では混乱した都市の現実(利益最大化を目指す営みが、その力の差や時間の差をもちながら集積した姿)なので、都市を口実にしてただ複雑な様相をかたちにしたようなものは都市を変える力を持つはずがありません。それから仮設的なストラクチャで自然発生的にだんだん増殖しますとかという卒業設計だけで生き延びているアイディアについては、もはや災害時にすらセルフビルドする人はほとんどいないし、公権力と資本の力がそんなことを我々に許してくれないということをもっと考えた方がよい。あとは墓(およびメモリアル)。感覚のいい学生たちは無名・匿名な死をテーマにしているのだが、そうするとどこかに国家の影がちらつくことはほとんど意識されていない。大量の無名の死と、私小説的に死を考える瞑想みたいな話を直接に結びつけると消されてしまうものがあるということですね(丹下健三ヒロシマを勉強しなさい)。同様に、多様性とか仮設性とかも、それをただ美的な問題として処理してしまうと見えなくなるものが多い。
というわけで、僕の評価軸は、こういうことにしました。多様性、仮設性、象徴性などなどへのロマンティシズムと見えるものは採らず、そうでないものを採る。で、この軸で押せる作品をできるだけ押し上げる努力をこの数日間したつもりです。ただ、僕が押さないと決めたものの方が表現としての力は強いので苦労しました。
ともあれ、あんまり無邪気に向かうわけにはいかない課題に向かってみようというのが卒業設計の面白いところでしょうから、行き先とともに、そこへの向かい方をもっと突っ込んで考えなきゃダメよというのが全体を通じてのコメントです。
ひとつは構法とか寸法とか、何かにこだわってガンガン詰めてみるということですね。そのリアリティを上げてゆけば、いずれこの都市の現実を動かしている原理(経済とか公権力)がちらっと見えて来てそれなりにもがくことになるかもしれないけど、もっと手前のところで止まっているものが多い。次に、むしろ最初からそういう支配的原理について大真面目に研究して確信犯的にその一部を導入してみるという選択肢がある。そうでなければ都市にそもそも抵触すらできないと考えるのが最近ではむしろ主流になっている、ということくらいは学生諸君も雑誌とかで知っているでしょう(?)。で、最後のひとつはそんな現代の原理などいずれ解体するんだぜと考えてみることです。実際、どの時代の国家も経済も繰り返し死んできましたが都市も建築も死んでいない。じゃ、今の体制が崩れたときに残るリアリティとは何かというのが現代の最大のテーマかもしれません。
いずれにせよ、大野先生がいみじくも最後に言われたように、図書館へ行け、歴史に学べということを僕も言いたい。

最後に、僕自身へのコメント。僕は設計をしないので(実はちょこっとやったことはあるけど)、やっぱり評価も抽象的であることは免れません。大野さん、中村さんのコメントは、当日のプレゼンテーションだけで即座に鋭いところを突いておられるし、同時に作り手としてそのアイディアの展開可能性を自分に引き寄せて見ておられる。僕などが言うのもおかしいですが、勉強させていただきました。一方、僕も含めて専任教員の評価方法にはむしろ再検討の余地がいっぱいあるし、ということは審査の仕組みも改善すべきなのかもしれないと思いました。