「津波と綾里博物館展」第2回展覧会 20160912-18@綾里地区港集落内

 去る9月12日(月)から18日(日)に、岩手県大船渡市三陸町の綾里地区にて「津波と綾里博物館展 歴史・復興・住まい」が開かれました。
 饗庭伸(首都大学東京/都市計画)を中心に、池田浩敬(常葉大学/防災)、木村周平(筑波大学文化人類学)、青井哲人・石榑督和(明治大学/都市史・建築史)、岡村健太郎東京大学/都市史)、佐藤翔輔(東北大学アーカイブ(記録の保存活用学)、山岸剛(写真家)といったメンバーと、6大学の各研究室の学生たちが、早いところでは2012年より地区復興のサポートに入り、2014年頃からは歴史・民俗・未来にわたって「津波と綾里」を多角的に掘り下げる研究を行ってきました。この間、じつに多くの方々にご協力と励ましをいただいてきました。この「博物館展」では、伊藤暁(建築家)、中野豪雄(グラフィックデザイナー)の参画を得て、これまでの成果を地区の皆さんにご覧いただきました。17日には研究成果の報告会(@綾姫ホール)も実施し、町民の方々が約100名お集まりくださいました。
 展覧会の会場は、昨年に引き続き港集落の空家(昭和三陸津波後の復興時の建設された築約80年の建物)をお借りしています。「博物館展」というちょっと奇妙な名称はですね・・・、架空の「博物館」が、この空家を借りて「展覧会」を開いている、ということなのだと私は理解しています。このヴァーチャルな「博物館」は、現時点では参加各研究室あるいは本プロジェクトで整備中のデジタル・アーカイブ、さらには町民の皆さんの知恵や資料などのかたちで、やや分散的かつ潜在的に存在しています。しかし、「展覧会」を開くことで、町の方々や、あるいは現在は町外にお住まいの方々が足を運んでくださり、展示物を前に生き生きとした語りを生み、ひとつひとつの資料に意味の厚みを与え、我々の知らなかった資料を持参くださることによって、「博物館」は姿を表し、成長していきます。その意味で、架空の博物館が具体的な場所に立ち現れる、「博物館」×「展」という形式は我々の予想を超えて意義深いものを秘めているように感じました。

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↑外観。最終日閉館後(9月18日)、看板を下ろして集合写真(会期中、博物館に詰めた先生・学生はもっと沢山います)。中央が公民館の西風さん。西風さんがいなかったらこの研究プロジェクトも展覧会もすべてありえなかったでしょう。感謝しております! そして隣近所の奥様方。毎日差し入れありがとうございました!

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↑内観。綾里地区の典型的な民家の間取りに対して、そこからズレて白いフレーム・パーティションが走り、両者のオフセット(ズレ)が順路をつくり出しています。

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↑明治+東大チーム(=空間チーム)で担当した、昭和三陸津波後の復興期につくられた民家の実測図。博物館展のなかで一番ストイックな一角。

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↑つづいて綾里の歴史・産業・民俗・社会、そして津波被害・再生の歴史、3.11の避難行動、3.11直前の町並み景観の復原・・・などのコンテンツが続きます。展覧会には綾里関係者だけでなく色々な方が来てくださいました。東北大の川島秀一先生、早稲田の佐藤滋先生、それに(偶然!通りかかった)塚本由晴さん・貝島桃代さん。

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↑そして昨年の博物館展で来館いただいた方がご提供くださった映像2編の上映。1949年制作。おじいちゃん、おばあちゃんたちが、映像のなかに登場する人々を見ては「あのバッバだべちゃ」とか「あの頃はべっぴんだったんだなア」と盛り上がる。そういう語りを集めればどのカットにもキャプションと解説が付けられそうだ。映し出される風景・風俗がわが実家(愛知県の中山間地域)の70年代前半(つまり僕が小学校に上がる前の頃)の写真(つまり僕のアルバムの写真)とそう大きく変わらないことにすぐさま思い至る。日本の農山漁村は近世から1970年頃までおおむね連続的に推移してきたのだ。一方で、道路建設や医療・保険の普及などが「近代化」の文脈で持ちえた意味も考えさせるフィルムである。

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↑空間チームの一員が解説中。

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↑ 17日夜の飲み会。

*本記事掲載の写真は、饗庭伸先生・熊倉永子先生に提供いただいたものを含んでいます。