大学院設計スタジオ2 「神山スタジオ」:0829プレゼミ+0904-10神山合宿(中間報告)

 神山スタジオ2年目。伊藤暁さんと青井、そして門脇耕三さんの3人が担当。M1が13人履修し、アシスタント(M2)3名が運営補助。
 昨年度に引き続き「ヴァナキュラーなもののテクトニクス」とその現代的再編がテーマ。去年は民家(建物)を実測して分散型公共図書館に改修する提案を求めたが、今年は視野を広げ、人が環境に取りつき、自らの生きる場所へと改変する、そういった工作者と環境との生きた造形上の関係に迫りたいと考えた。具体的にリサーチしたいと思ったのは石積み。
R9289014* 石積みは資材の再配置である。山の土壌を「資材」とみなし、土と石とに選り分け、それらを平場(土の耕作面)と土留(石積み)とに再配置するのである。
千枚田」などと呼ばれる、みわたすかぎりの山の地表を覆い尽くしている見事な棚田や段々畑の風景は、こうした再配置の行為を小さな単位で反復し、平場の面積を最大化した状態に他ならない[写真は1964撮影/神山町郷土資料館蔵]。
 ちなみにこの地域では近世まで人々は山のかなり高い位置に屋敷を構えていた。つまり棚田や段畑とともに斜面に暮らした。それが近代の治水・道路建設や学校等の社会インフラの配置に伴って低地に下り、凝集するようになったという。

agawa_jingi この写真は同じ場所の現在の姿。かつて、こうした中山間地域の畑は大半が自給用のイモやムギをつくっていたが、戦後は高所に建材用樹種(杉・檜)、中腹以下には果樹(梅・スダチ等)が、競うように植えられていった。工作者と環境との関係に、貨幣と市場が割って入り、そうして段畑の先行形態(F)とその利用(S)の組み合わせが書き換えられることになった。
 植林された山は水を失うという。低地への家屋の移動も促される。他方で教育・就業環境も激変して、息子・娘たちが町外・県外へ出ていくのも普通になった。
 そして今や、果樹・林業(S)は商売になりにくいため耕作や施業の放棄が増え、それゆえ先人(工作者)がつくり維持してきた段畑(F)も崩壊が進みつつある。近代というプロセスの凄まじさを考えざるをえない。


 先走りすぎた。上に書いたことが事前に分かっていたわけではない。以下ではスタジオの実際の進行に沿って諸々ノートし、備忘録としたい。

まずは8月29日(月)にプレゼミ実施。課題図書は下記のとおり。

[A] テクトニクス×機能・・・建築の躯体・部位が何らかの機能(生産・環境制御etc)をそなえる
 -後藤治ほか『食と建築土木』(LIXIL出版、2013)
 -安藤 邦廣『小屋と倉 干す・仕舞う・守る 木組みのかたち』(建築資料研究社、2010)
[B] テクトニクス×構成・・・テクトニクスが空間の分節や拡がりの編成と連関する
 -山本学治『造型と構造と』(SD選書244、鹿島出版会、2007)
 -山本学治『素材と造形の歴史』(SD選書009、鹿島出版会、1966)
[C]テクトニクス×類型・・・テクトニクスのいくつかの類型とその複合
 -太田邦夫『工匠たちの技と知恵:世界の住まいにみる』(学芸出版社、2007)
[D]テクトニクス×時間・・・地形・構築物などの先行形態と次なる介入とのテクトニックな関係性
 -中谷礼仁宮本佳明ほか 特集「先行デザイン宣言」(『10+1』no.37、2004年12月)

 3〜4人のグループを自由につくり、上記A〜Dのいずれかを選んでレジュメを切り発表。加えて、読書から得られた知見(論理)を応用するために参考となる現代建築の事例を選んで紹介せよ、という難題。多くの班が現代建築の潮流にとらわれて課題図書を置き去りに。これ、たぶん出題が悪かった。むしろヴァナキュラーなテクトニクスにみられる論理をなぞる(復習する)ことができる現代建築を探せ、という感じにすべきだったかな(そもそもよい事例がほんとに少ないとは福島加津也さんの言)。
 実はこのプレゼミ、何とゲスト講師に福島加津也さんをお招きし、馬場兼伸さんも参加されて、なかなかハイブロウな議論になった。福島さんは瀝青会の「〈日本の民家〉再訪」の活動を紹介してくださったが、ほとんど狭義のテクトニクスにふれなかったのが印象的。むしろその建物にまつわる社会的・生産的・信仰的な意味を強調し、いわゆる構法・技術はそれらとの関連において建築の「建築性」あるいは「世界性」「象徴性」のようなものを組み立てる道具立てにすぎないのだと強調されたように思う。というわけで夜の飲み会はそのあたりに議論が集中。(福島さんは美学的判断の重要性を説く。たしかに構法的・技術的判断だけを合理的に走らせる、などということはそもそもあえりない。かといって、建築の多元性を、分裂症的・コラージュ的に肯定するやり方もまた福島さんの良しとするところではない。何らかの統合性がなくてはならない。そこに、広義のテクトニクス、あるいは「テクトニックであらんとすること」がアクチュアルな意味を持ってくるのではなかろうか)

 現地合宿は9月4日(日)スタート。サテライトオフィス・コンプレクスに明大理工学部サテライトオフィスを開所し、宿泊先である上分川又の民宿「田中屋」さんにて夕食。以後一週間、合宿最終日前夜のオロナミンCの差し入れに至るまで、田中屋さんは我々のスケジュールの一切をお見通しなのであった。ありがたや(まじめに神山合宿ならイチオシの宿)。
 2日目の9月5日(月)はそぼふる雨のなか神山町内見学ツアー。対象地である阿川の神木(じんぎ)集落もざっと確認。午後は真田純子先生(東京工業大学)と金子玲大さん(上勝町地域おこし協力隊/石積み学校)にレクチャーをしていただく。今回のテーマは、建築分野の人間には(なぜか)とんと馴染みのない石積みなもんだから、謙虚にその道のプロに学ばせていただこうというわけ。真田先生は土木分野で日本の近代都市計画史の研究をなさっているが、実は徳島大学におられた時期に石積みの修復と技能継承の活動をやってこられた(今もやっている)。真田先生は『棚田・段畑の石積み:石積み修復の基礎』という自作テキスト(よい!)に沿って講義をしてくださり、お弟子さんの金子さんは実測方法の講義と野外での実地講習をしてくださった。お二人のおかげで、我々の石積み観察の解像度は700%ほども高まり、翌日以降は自分たちの観察と聞き取りだけでもかなり相乗的に知見をふくらませていくことができるようになったのであった。ありがとうございました!!
 9月6日(火)は、対象エリアの石積みの実測と、加えて3棟の民家の実測を行った。田畑の持主や民家にお住まいの方々への連絡は、神山町役場の高橋成文さんが東京営業から帰られたばかりなのにフットワーク軽く対応してくださる。ありがたい。以後最終日まで、我々の実習に(普通ではあえりない)機動性を与えてくださったのは他ならぬ高橋さんであった。学生たちはといえば、やはり建物に向き合って実測するのは楽しいらしい。ただしモノの組み立てをその基本的な理屈を考えながら見る、測る、描く、という作業がちゃんとできる人は存外少ない。となれば門脇先生の出番というわけで、どこでも滔々たる講義と推理がはじまるのであった。
 9月7日(水)午前中も実測を継続。午後はNPOグリーンバレー理事長・大南信也さんのレクチャーと質疑応答、つづいて神山町長の後藤正和さんにもレクチャーをしていただいた。大南さんからは一連の「神山プロジェクト」の組み立てと行動原理、そして後藤町長からは神山の産業や歴史について学んだ。このあたりで門脇先生は東京帰還。学生たちはこの日までに「えんがわオフィス」「WEEK神山」はじめ、いくつかのサテライトオフィスや移住者のショップなども見学させていただいていた。こうしたインプットを踏まえて、夜はいよいよ提案すべきプログラム(つまり新たなF-S結合をつくる「S」の提案)についてのファーストMTG
 9月8日(木)。石積みの実測はこの日の15時くらいまでで完了。神木集落あたりでは明大の学生が何やら石積みの測量をしているらしいというのはすっかり知れ渡っている。V字谷に男子学生どもの奇声が響き渡る。あとで聞くとスズメバチだという(被害なくてよかった・・)。皆さんご苦労さん。そしてこの日、学生たちが実測するフィールドにふらりと寄ってきたある男性が、我々の眼前にひろがる環境のテクトニックな成り立ちについて決定的に重要かつ高解像度の情報を提供してくださったのだが、このあたりは伊藤さんのFBを参照されたい。あの話は興奮したねえ。

 伊藤暁Facebook 9月8日の記事
 伊藤暁Facebookアルバム「明治大学神山スタジオ2016」

 夜のMTGでは、3班がそれぞれプログラム提案=設計要項の作成に取り組む。2班は方向性が見えた。1班は昏迷。MTGには高橋成文さんにも参加いただいたが、高橋さんがあまりに的確に助言くださるのでもう次第に頭が上がらなくなる。なおかつ、方向性見えた2班には、ならば明日はあの地へ行くがよい、あの者に会うがよい、と賢者の導き(というかその筋に連絡してセットしてくださる)。
 9月9日(金)プログラム提案=設計要項作成の作業を継続。C班は鬼籠野の神山町郷土資料館へ取材。ここが思いのほかと言っては失礼なほど面白く、ヒント満載なのであった。昼には川又郵便局長の塩本さんが改修中のご自宅(昭和初期)を見せてくだった(これは知的ヨダレ止まらぬ逸品であった!)。A班は夕方、神山フードハブ・プロジェクトの白桃薫さんのお話をうかがい、勉強させていただき、自分たちの方向性を定める。賢者ありがたや。B班は昏迷深まり・・・いや何とか行けそうだ。
 9月10日(土)はサテライトにて1週間の合宿の報告会(スタジオ中間発表会)を行って12:30頃全日程終了。写真(↓)は阿波踊りのポーズ。中央のホンモノが高橋さん。
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 いやはや、学生たちには折りにふれ吐露していたとおり、このスタジオ、教員もどこへ進むか分からないまま、フィールドを共有し、一緒に競うように学んでいるつもりだったが、多くの方々のご協力とご教示のおかげで対象地の広い意味でのテクトニックな成り立ちを知ることができ、学生たちもよく頑張り、まずまずリアリティある提案(設計要項)ができてきた。続く東京編では、これまで実測+要項作成を行ってきた班のメンバーはそのまま維持し、他の班がつくった要項に対して具体的な建築設計を進めていくことになる。というわけでまだまだ続くよ。4単位とは思えぬタフな授業。多方面に迷惑をおかけしています!(感謝の意) 学生諸君、プレゼミの本、福島さんの言葉を思い出そう。12月には昨年同様、神山町での成果発表会やるよ。


 さて、これ(↓)が今回、神木集落を対象地に選ぶ理由となったブツ。わずかな地形の特徴によってつくられる、「風玉」と呼ばれる極度に強い風の通り道となる5〜6軒の家だけが、こうした石積みの自立壁によって家を守ってきたのだという(伊藤さんのFB参照)。写真のケースでもこのL字の壁に守られる位置にもともと屋敷があったそうだ。
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↓同じ壁を、川を挟んで対岸から見た立面。壁の向こう、中腹までは果樹園、それ以上は杉林(ほぼ放棄)。これは比較的新しい風景であり、1960年頃に遡ればほとんど尾根に至るまで自給的な段畑だった。
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↓下の写真も暴風石垣だが、やはり家がなくなっている(これは2015年12月撮影)。
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 M1およびM2諸君の報告によると、一般的な観察結果としては、田畑の奥行きは概して小さく、石積みの高さは2m内外で大きなばらつきはないという。つまり、石積みの労力と強度から石積み高さに一定の目安があり、そこから平面奥行きが決められていると考えられる。対して屋敷の場合は一定の奥行き(広さ)が必要なので、逆に石積みが5〜6mと非常に高くなることがある。つまり田畑とは逆に、平面から高さが決まっているのだろう。加えて、それらとはまったく異質なこの防風の石積みがあって、これは民家の軒高と風の向きが形態を決めている。いや、ここを選んだのは正解だったなあ。上一宮大粟神社のお導きじゃ。
 ちなみに大粟神社(神山町神領字西上角)のご祭神は、町長が紹介してくださったとおり大宜都比売命オオゲツヒメノミコト)。『古事記』に次のようにある。《高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。》(wikipediaより)・・これもまた、古代に起きた資材再配置の物語なのであろう。