『自分にあわせてまちを変えてみる力』が刊行されましたね。

201604_machi_chikaraこういう本が出ています。
饗庭伸・秋田典子・内田奈芳美・後藤智香子・薬袋奈美子 編著『自分にあわせてまちを変えてみる力 ― 韓国・台湾のまちづくり』(萌文社、2016.03)
目次はこちらを参照。
日本の「まちづくり」、韓国の「マウル・マンドゥルギ」、台湾の「社区総体営造」の比較・交流史的な考察の本、というとちょっと堅苦しい紹介になっちゃうかもしれないが、この三つは互いに学んだり交流したりして育ってきたものであると同時に、ちょっとずつ違う。そのあたりを、活動の現場をフィールドワークを通してカタログ化するといったユルイ感じのアプローチと、各々の社会が辿ってきた政治史の文脈で整理するちょっとイカメしいアプローチの、両面から捉えている。というわけで、かわいらしい装丁やタイトルに油断してはいけない。というか、アメリカなんかではまちづくりは実践家と政治学者や社会学者が論じ合うものだろうし、台湾なんかでもそういう感じがある。ということからいえば、日本に案外その手の本がないということはたぶん日本の戦後史の「何か」を物語っているはずである。
唐突で恐縮だが、1930年代の日本では、昭和恐慌がもたらす経済的困窮と社会不安のなかで官僚たちが村や町の「協同組合化」というべき社会統治を組み立てようとした。つまり人々が共助的な経済事業体を形成するようにして、分裂しがちな共同体を安定させ、同時に彼らの経済的持続を彼ら自身で経営するようにした。もともと協同組合は自由主義的資本主義の社会という荒波の海に小さな自律的な島をつくる対抗的な運動だったと思うが、30年代には(自由主義経済の行き詰まりとともに)むしろ国家がそれを活用したのである。70年代だって50〜60年代の反体制的な運動のエネルギーを政策的に社会にビルトインしていくことだったと思うし、そこでも共助的なコミュニティが強調されてきた。20→30年代も60→70年代も世界的にそういうことがあった。そんな脈絡を踏まえると、本書のタイトルが「みんな」ではなく「自分」を謳ってアジアを見なおそうと言っているのは、編者らの大事なメッセージである(本書前書きでは、これを民主主義がもたらす全体化という問題との関連で言っている)。つまりタイトルもじつはユルくなかったりするのであった。とにかく色々な意味で、まちづくりを批評的に捉え返し、そこから何かを取り出そうする本だし、読者もここから幾筋もの線を描き出すことができる。
ところで本書のまんなかには石川初、加藤文俊、青井哲人、山代悟へのインタビューがサンドイッチされていて、前半のカタログを、後半の政治論へとつなぐブリッジの役割ということのようだ。インタビューを受けたときはイマイチ分かっていなかった。ナルホド。