『明治神宮以前・以後』の書評会、丸一日。

 藤田大誠・青井哲人・畔上直樹・今泉宜子編『明治神宮以前・以後―近代神社をめぐる環境形成の構造転換―』(鹿島出版会、2005)に関する書評がいくつか出ていることは前に当ブログ(この記事)でまとめた。今後もまだ出るようで、ありがたい。

 で、昨日は2日にわたる第1回 宗教とナショナリズム 研究会(2月27〜28日)の一貫として、この本の公開書評会が催された。企画は藤田大誠さん(御苦労さまでした、感謝!)。そしてお迎えした錚々たる批評者は下記4方。9時から17時まで、批評と応答で丸一日(懇親会は23時まで)。

批評者:
 土居義岳(九州大学芸術工学研究院教授 西洋建築史)
 平山 昇(九州産業大学商学部講師 日本近代史)
 小島伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授 憲法・近代日本法史・宗教社会学
 山口輝臣(九州大学人文科学研究院准教授 日本近代史)

 平山さん、小島さん、山口さんからも鋭い批評をいただいたが各々書評記事として出版された(される)ので、ここでは建築を中心に振り返る。建築分野では私から是非土居義岳先生をお招きしたいと推薦し、土居先生にも快くお引き受けいただいた。稀有な批判的建築史家にしてフランスを中心とする西洋建築史研究者たる立場から、日本の「建築と宗教」をめぐる歴史過程について比較史的な見通しを鮮やかに開いてくださるだろうと考えたからだ。そしてまさにそのような批評をいただいた。これまでメールでやり取りすることはあったが、昨日はたくさんお話できて率直に楽しかったし、僕の頭もクリアになった。それにしても先生が仮説的整理を組み上げる速度には正直びびった・・・などと思い出していたらさっそく土居先生がブログで昨日のことを書いてくださっている。→「國學院大學たまプラーザキャンパスにて」土居義岳の建築ブログ
 ブログには書いておられないが、土居先生は僕が担当した「第1章 神社における「近代建築」の獲得」について、いかにも曖昧で不自由な(あるいは端的に幻想というべき)「近代建築」の獲得・達成というプロットをとることの問題性(そういうのはやめようよということ)を書評会ではご指摘くださった。8年前に明治大学に来て、まもなく旧知の友人を含む神道史、宗教社会史、地域史、造園学などなどの皆さんと研究会をはじめた頃、神社建築の辿った思想史的軌跡をテコに、日本近代建築史を書き換えられるはずだと漠然と思っていたのだから、「近代建築」を所与の達成目標とするかのような従来型建築史の書き方に見えてしまってはダメなので大いに反省したのだが、著者としてはいちおうアイロニカルではある。神社も、いわば学校や病院と同じく社会政策的枠組のなかで制度としての「近代建築」になったのである。様式(表象)を後退させ、身体・行為の社会的意義が主題化され、経験主義的フィードバックを通して量産に適合的な一定の標準型がテクノクラートたちによってつくられていったわけだから。
 一方で神社の空間は建物だけでない。明治神宮以後ははっきりと森+社殿を一体的に捉える理論(アーキテクチャ)によって整序されていった。明治期には神社といえば社殿のことを指していたのに、昭和期には明らかに森の認識がドミナントになっていく。人為から自然へ。人為を排した有機的 organic な世界の生成の奥深さとして自然をロマン主義的に理解するモードさえできれば、森はある種の全体性のモデルを与えるか、機械的=力学的 mechanical な世俗界を補完するか、あるいはそもそも理解以前に美的な降伏を欲望させる(西行の歌「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに・・」の常套句化)ようになるらしい。つまり宗教性を持ちはじめる。
 土居先生が昨日前提とされたのは「政教分離後の聖性の再構築」というような枠組みで、では日本の場合、神社の場合、それはいかなるシナリオで理解可能か、ということであり、それを建築に引き付けるとどうなのか、ということであった。カトリックの後退は、たとえば自然科学主義思想やそれと絡みあう一群の宗教運動的な動きを生み出したりしたことも知られているし、いずれにせよ哲学や歴史学普遍史)や社会学や生物学や・・・あるいは芸術が、交錯しながら聖性を練り上げていく。もちろん、それは近代産業社会をどう編成するかという問題でもあった。
 そこでぼくは「生成的なものの技術化」というようなコンセプトを考える(考えてきた)。たとえば王権の崩壊によって顕わになったバラバラな人々の集合(ゲゼルシャフト)を理論化したのが社会学で、つまり「社会」はバラバラ性からなぜだかそれなりの全体がたちあがる生成の謎として発見された。心理とか無意識のような謎も教会の衰退のなかで対象化された。生物の生長・進化も、神が制御しない無目的な過程として捉え返された。こうした生成的なものの発見と理論化が19世紀を通じて進み、20世紀、とりわけ1930年前後の自由主義から計画主義への転換のなかでそれが技術化された。そんなわけで神社では森がやはり重要なのである。それは「生成的なもの」だからこそ聖性をもち(ダジャレじゃなく)、しかしすでに「技術化」されてもいたのである。
 神社の建物(社殿建築)は、つまりその人為性・構築性ゆえに後退を余儀なくされた。とはいえ、上にも書いたように、社殿建築でも「社会」は主題化されている。バラバラの人々がどのように流れ寄り、手を合わせ、祭儀に参加し、去ってゆくのか、それはどのように社会統治とかかわりうるのか・・・。これもまた生成的なものの技術化であり、社会的な身体に建築を適合させる方向性をもつ。だがやはり建築が自然であることは難しい。昭和戦中期の神社量産時代の造営の頂点にいた角南隆は、1940年頃から地域主義的な思想を部下たちに吹き込みはじめたらしいのだが、それはどうやら生成論の建築版(あるいは建築がいかに自然的でありうるかという問いへの回答)だったと思われる。つまり個々の場所がもつ固有の生成力が自然に顕在化したものとして神社はあるべきだというのが角南の「国魂神」論だったのだし、その角南神学は、戦後は汎神論的な傾きを増して、ざっくりいえば生気論によって宇宙から日常までも説き切るような宗教思想へとまとめられていったようなのだ(どことなく19世紀末から20世紀初頭のヘッケルを思い出させる)。
 書評会が終わって懇親会へ移動するとき、土居先生と、神社論の延長上に丹下健三のことも話し合った。丹下は量産時代の神社が備えるロマン主義的な聖性を、モダンな建築造形でもっと力強く上手に再現できると思っただろう。戦中のコンペはもちろんのこと、広島の、これ以上ない公共的=宗教的可能性をもった建築プロジェクトを彼は神社以上の「神社」としてつくったのであった。