『建築雑誌』2015年7月号特集「メディアコンテンツ化する建築」

kj201507_medium 『建築雑誌』2015年7月号特集「メディアコンテンツ化する建築」が届いた。建築はいまどのような「流通価値」を持ち、つまりは社会的に価値付けられ、受容され、消費されているのか。建築の専門性から外へ出て兆候的な事例を収集し、それらを通して、逆に私たちの「建築の社会性」思考にどんなバイアスがかかっているのか、あるいはどんな新しい可能性がありうるのかを考えさせる特集。


 明治大学建築史建築論研究室(青井研)では編集部(南後由和さん)から依頼を受けて、新国立競技場問題にみる建築の社会的振る舞いの特徴を捉え直すための素材を提示している。インフォグラフィクスは中野豪雄氏の方法を学んで学生たちが制作したものがそのまま掲載されている。彼らのブログがふれているとおり、今年5月以降の屋根なしだの予算大幅増だののゴタゴタは(〆切後のことだったため)反映されていないが、報道をみるといよいよコンペまで遡ってシッポ切り的な責任追及(をめぐる攻防)という矮小化へ陥っていきそうな気配が濃厚だ。むしろ全体を構造的・包括的に捉え直すことが必要で、その視点をわずかでも提供できていればと思う。

 本特集では、社会的な受容や価値付けといったテーマが「流通」や「消費」といった語で問われる。あえていうまでもなかろうが、これは建築(環境)は近代において商品化したということであり、また今日では商品としての建築にこそ社会的受容の先端的兆候が読み取れるということでもあろう。
 建築の商品化の現れとして、まずは19世紀の折衷主義を想起してみる。着せ替え人形のごとき歴史様式の選択・交換・混合が可能になる背後で、意匠と躯体の「分離」が生じていたことはつとに指摘されてきたとおりだ。一方では自由放任的な経済に適合的な、消費されるイメージとしての建築への需要、他方ではプランニングや構造・設備を意匠に振り回されない工学の領域とする合理主義があって、それらが「表層/深層」的な二階建ての関係で結合されるのである。アール・ヌーヴォーやセセッションまではこの延長上にある。
 こうしたありようをブルジョア的なものとみなしそこからの脱却という舵取りでヘゲモニーを目指したのが近代建築であった。だが、それが社会的に一定の訴求力をもったのが1930〜60年代の40年間ほどにすぎなかったことは、今となってみればかなりはっきりしている。この時期は、(自由放任主義への反動として)世界史のなかでも最もホーリスティックに社会全体をパブリックな問題として政治化・政策化した計画主義の時代であり、産業化や公共事業によって富を平等に分配しようとした。近代建築はそれに乗って普及した。ドイツ工作連盟ル・コルビュジエのドミノが文字通りそうであったように、近代建築は標準化・大衆化された知財であり商品であった。
 だが、こうしたやり方は資本蓄積の危機を招く。新自由主義への転換は、欧米先進国では70年代後半にはじまる。それ以降の建築が、19世紀に似た様相をとりはじめたとしても不思議ではない。

 本特集はとても興味深い素材を豊富に揃えてくれている。重要なのは、読者がそれをどんな歴史的パースペクティブで読むかだろう。多くの現象は19〜20世紀に先例を見いだせるかもしれない。一見新しいと見える事例の、本当の今日性をつかむのはそう易しいことではない。
 たとえば得能摩利子さんのインタビュー記事によると、ルイ・ヴィトンなどのブランドのフラッグシップ店舗の設計では建物(のアイコン性)を建築家に委ねるが、内装・ディスプレイ(すなわち内部的=技術蓄積的な内容)はインハウスのデザイナーが担うという二重構造をとる。19世紀折衷主義とよく似た分離だ。だが、違うところもある。ひとつは判断のスケールがグローバルであること。アイコンは街路に対しても写真や映像による流通においてもグローバルな個性を持たねばならず、内装はグローバルに均一なコントロール下になければならない。もうひとつは外と内が概念的・技術的に分離するだけでなく、その設計の主体(組織)も分離されている点。類例はデザイナーズマンション的なものから最近の大規模再開発まで広く見いだせる。建築生産が、拡張され洗練されていくビジネスの論理に合わせて調律されている印象だ。特集で紹介される他の事例も、基本的にはマーケットの性質に沿ったデザイン対象のフレーミングと、デザインの分節とが、技術と経済の変化のなかで開発・洗練されている事例群ということになろう。

 ところで、このブログでも何度も指摘してきたように、新国立競技場の設計体制も上にみた例とよく似ている。しかし新国立の場合、施主(の複合体)がまともにプロジェクトをコントロールする能力に欠けていた、ということはたぶん覆えないだろう。だが、施主にもっと高いマネジメント能力があればよかったかといえば、それは違うだろう。根底には、公共性の領域がいまどのように構成されようとしているかという問題がある。つまりこの事業では、グローバルな都市間競争やら国際スポーツイベントやら音楽・エンターテイメント業界やらのビジネスが、世界一のスタジアムを備えた世界一の都市でありたいといった政治的願望の肥大と接着して、「公共」をいいことに無茶苦茶に突っ込まれて出発した。もし民間企業にまかせれば、プログラムをうんと整理しただろうし、コストの管理だってデザインの管理だってもっとうまくやっただろう、といった指摘はありうるかもしれないが、そもそも公共財とは何かという議論を落としてはナンセンスだ。(つまり公共財だからこそコンペをしたのであって、コンペでない方がマネジメントは楽だし安いし儲かる、ってな話に帰着させないこと。)

 いずれにせよ建築(環境)のデザインについて、それがどのように分節ないし階層化されているか、それがどのような意思決定と生産関係と対応しているか、そして、結局のところそれらがどのようなビジネスのフレームワークに適合的に調律されているのか、という視点でみてゆくと、およそのことは整理できそうに思える。けれど、マネジメントを洗練させ、パフォーマンスを上げることがすべてではない。