こんなときは、匂いをかぎつけなければならない:『磯崎新 interviews』を読んで

磯崎新+日埜直彦『磯崎新 interveiws』(LIXIL出版、2014)を読み終える。献本頂いたものの手に取る時間がないままだったが、最近断続的に読み進め、読了し、記憶が消えないうちにと思い、昨日一気に再度通読した。今後も多方面の勉強を重ね、時々戻ってこないといけない本だと思う。

事が起こったときにすぐに理論化するのは無理で、勘でやる以外しょうがない。・・・こんなときは、匂いをかぎつけなければならない。プロジェクトを組んでみること、その結果の方が有効です。(p.036-037)

パラダイムが変動し、従来の枠組み(コンテクスト)が解体されようとしているとき、磯崎は鋭く反応する。同様の言葉は本書中に何度も出てくる。上はその最初。下がその最後かな。

状況が読めない時に、建築家のような人間は、いつかどこかで既存の流れを組み換え得る、突破できるような仕組みを提案さえしておけば、ある体制が潰れた時でも生き延びます。・・・自爆したり暗礁に乗り上げたりするようなプロジェクトを山のようにつくればよい、それしかない(笑)。(p.333-334)

磯崎の「勘」は、状況が立ち上げるだろう対処の布置を的確に描く。その布置は、往々にして二極に分裂・分解している。そのいずれか一方に陥ることなく(それはその状況を補完することにしかならない)、自律性を保持しうる途を探る。その分裂・分解が本質的な「矛盾」つまり解き難い「アポリア」であればなおさら、その両極の「間」にとどまり、その両方を抱え込んだ問題を構成してみせることが重要だと磯崎は言う。
人に分裂を強いるのは、たとえば国家という名のアノニマスだが強力な機構であったり、大きな資本の活動であったりする(いや、近代という時代の避けがたい構造+運動の問題というべきか)。それらがプロジェクトのアーキテクチャを握っている。分裂した状態を抱え込まなければ、そもそもプロジェクトが動いていかない。

肝心な問題は、何を手がかりに決定がなされ、その意思決定はどのように組み立てられていくのかが、どのようなデザインよりも強いということでした。(p.085)

「勘」を働かせ、「プロジェクトを組んでみる」ことによって、仮説的に持ち込んだ形式(テンタティブフォームという言葉は90年代のものだが、同じことは初期からずっとあったはず)のまわりに、時代の変化の兆候やら、プロジェクトをめぐる意思決定の力学やらが姿を現わし、同時に自身の持ち込んだ形式(戦略)の有効性=自律性と限界とが浮かび上がっていく。建築家が(事態の推移の不透明さのなかで)ともかくも動いてみることと、「アカデミズム」とはかけ離れている。アカデミズムの蓄積は、その瞬間にはほとんど役に立たない。だが、「組んでみ」たプロジェクトとその「結果」を理論化する段では、磯崎といえどもアカデミズムに依るのだし、磯崎は頭抜けた能力で学的蓄積を吸収してきた(いや吸収だけでもないか)。

いずれにせよ磯崎は、コトを動かしながら言葉を生み、段階的に理論化し、自身や他者の実践をまるでその理論の範例のように扱う編集スタイルによって本にバインドする。状況が変わった後では、過去の理論が回り回って別の意味を持って再発見されうる。バインドが解かれ、組みなおされる。それをさらに重ね書きするようにして座談やインタビューに答えて雑誌が編まれ、また本になる。バインドはたぶん理論が状況・実践とのあいだに持ち得た緊張を多少なりとも消し、書名によって物神化する効果をもってしまう(それが誤解を生みもする)。物神化やクリシェ化は避けがたいが、その読み直しを磯崎自身が最も先鋭的に行い続けるという驚異的な自己言及的=更新的な運動性があればこそ、バインドはむしろ跳躍台として働き、テンタティブな仮説のプールに繰り込まれる。
そうして幾重にもなぞられ、置き換えられ、ずらされ、ひっくり返されたラインの数々を、磯崎はすでに歴史のなかに複雑に刻みつけてきた。気の遠くなるような自己言及の重畳。もはや磯崎の軌跡とより大きな建築史との区別もつかない。日埜さんのこの労作もその一部となるのだが、「磯崎的なるもの」のクリシェを再びつくることになるだろう行為をあえて試み、10年続け、日埜さんは自身の問題意識によってこの重畳を解きほぐそうとしてきただろうことが強く印象に残る。それはたぶん、磯崎の軌跡のなかで様々に変奏された主題群を、その同型性の相において捉え直し、そのことによって磯崎という分裂的「建築家」に一定の輪郭を与えつつ、そして同時に、彼が見た(つくった)時代の歴史を、彼の目で描かれたその像から一定程度まで腑分けできるような状態に、言葉を置き直すことだったのではないかと思われる。それは戦後建築史を読み直す上で避けがたい作業だ。

そのうえで、建築家である日埜さんの問題意識をもう一歩踏み込んで読むべきだろう。磯崎の自己言及的=更新的な運動性からすれば、重要なのはひとつひとつの論理よりもむしろ、その下にある磯崎の半ば身体的な判断の様式や倫理のようなものであるだろうが、日埜さんの狙いは磯崎が体現したそれを「建築家」のイデアルティプスとして今日的に回復することなのだろうと思う。

ここまで書いてしまうとあとはやや細部の話になるのだが、何点か興味を惹かれた点について備忘録的に書き留めておく。
(1) 60年代後半の磯崎は、同時並行的に世界中で多発した兆候的ムーブメントを集め、とにかく一気につなげ、括ってみようとした。そのときの彼は、「編集的」であることが必要だと思ったし、それしかないと考えたという。自分がつくるために、そしてそれをもっと先へ、もっと早く進めるために、磯崎はそう判断する。「症候群」という枠組みがそれだ。これが1972年の『建築の解体』にまとまる。しかし、70年代も半ばにさしかかると、むしろ「昔ながらの批評の組み立て方がやっぱり必要だと思いはじめた」(p.127)。現象を探して事態を加速させる段階から、それを「裏付け」るための理論的参照を必要とした、という。それが、『建築の1930年代』(1978)や『建築の修辞』・『手法が』(1979)などになる。磯崎の運動は、時代の変化を察知しながら20年スパンでこうしたパタンを繰り返してきたらしい。これは、僕の考えている40年周期説とたぶん重ねることができる。
(2) 都市−建築の往還運動こそが、磯崎的な自己言及的=更新的な運動性を支えるひとつのポイントだろうということ。これは僕が勝手に思っていることだが、ヴィオレ・ル・デュクによるゴシック大聖堂の修復や、デュランやガデによる新古典主義のなかでのプランニング理論の構築によって、複雑な建物に「組織」の観点を持ち込むことは十分に達成されていたが、ゲデスの有機体的な都市観なんかはそうした前史なしにはありえなかったのではないかと想像する。この種の往還による建築論・都市論の質的進展というのは、あまり言われていないだけできっと歴史のなかに沢山折りたたまれているに違いない。けれど、磯崎はこれを自身のなかで(丹下のような統合ではなく)時間差を置いた往還や同時並行的な進行というかたちで実践してきた建築家なのだろう。
(3) アカデミズムの問題。おそらく、逆説的にせよ、磯崎ほどアカデミズムに信頼を置いてきた建築家も他にいないのではないか。事態が終わった後で、距離を置いてそれを吟味することのできるアカデミズムに、磯崎はたぶん距離を感じつつもそこから多くのものを引き出そうとしてきたし、アカデミズムとのあいだに緊張感をつくろうともしてきた。忘れてならないのは、少なくとも70年代までは、研究にだって状況のなかで組み立てられる緊迫した運動性があったし、アカデミズムに政治的感覚が不要などということもないということ。堀口捨己、伊藤ていじ、神代雄一郎・・・といった人々の研究を思いおこしたい。そして、磯崎がそれでも彼らをアカデミズムの側に分類しようとする意識には、何かいつも逆説的な感情が張り付いているようにも感じられる。デザインサーヴェイ群と『日本の都市空間』との関係など。
(4) 磯崎による「タイポロジー」の理解について。18-19世紀のデュラン、20世紀のカーン、そしてロッシ、いくつかの脈絡がある。そして、ロッシのタイポロジーに対して日本のそれはアレゴリー的感覚を失ってしまっているという指摘(ここでもアカデミズムへの距離の表明)。そしてまたそのロッシへの距離感など。この混線というか捻れみたいなものも磯崎的な「勘」と運動性が生み出しているものだろう。考えてみたい。
(5) 1970年代に吹き出した「官/民」的言説(民の系譜を回復し、官の系譜を批判する)。僕は大学院の頃、『日本近代建築史再考:虚構の崩壊』(1974)を読んであまりにも単純すぎじゃないかと驚いた。その後、「巨大建築論争」を知って、複雑な脈絡の所在をそれなりに感じたが、それにしても、という思いも残った。「官」に奉仕する建築家を批判しながら、大正的な「民」の回復を、「民」の大資本がついに「官」と一体化しつつある1970年代に言うことの政治的な感覚がいまだによくわからない。磯崎によれば、村松貞次郎が近世・明治の大工や民衆像からゼネコン・組織設計までをサポートしたのは、リアリズム的なイデオロギーとしての一貫性はあったのだろうという(p.175)。左翼の文脈も含めて、70年代までの流れを再整理する必要あり。

* 最後に蛇足ですが、この本、ちょっと事実関係の誤認や誤字脱字が多いですねー。