都市形態論をいかに教えるか[復刻:2008.05.17, 06.02]

忙しさにかまけて復刻シリーズで失礼します。前に勤めてた大学は建築の専門教育課程のない大学だったのですが、ということは学生さんたちも誰も建築専門家になるわけではなく・・・そういう学生たちに都市の型態について考えてもらう授業について偉そうに書いてます。書いたのは明治に移った後です。

都市形態論をいかに教えるか(復刻:2008.05.17/semi@aoao)
今年の講義は、建築素人の学生たちに、「都市をいかに読むか」を教えることがテーマ。都市論は社会学的なトピックとかの方が話しやすいのだけれど、そこはぐっとこらえて、都市形態論を初歩からやってゆく(社会とか経済とかは、形態を議論できるようにしてから、それとの関係で論じたいからだ)。けれど、都市形態論ってけっこう難しい。都市形態論の教科書なんてものもない。

で、どうするかというと、簡単そうでちょっと頭を使わなければならない練習問題(しかもちょっと突飛なものが多い)をやらせて、色んな答えを出させ、その謎解きをする。それを積み重ねていくうちに頭を柔軟にほぐしつつ構築してゆく感じ。とはいうものの、問題をつくることはとても難しい(失敗するときも結構ある)。

たとえばこんなのはどうでしょう(ていうか、もうやったんですけどね)。

建築学科で勉強した人なら、ミリューティンの「線形都市」って知ってるでしょう。あれは、社会主義国の宿命として、中心−周縁を持つ資本主義的都市を回避し、可能なかぎり理想的な均質都市をつくるという課題への答えだった。で、授業ではそれを紹介せずに、空間形態の求心性/均質性についてちょっとイントロしゃべった上で、理想的な均質都市モデルを提案せよ、とやる。

難しいかなと思ったけど、案外いろいろな提案が出て、これは面白かった。ポイントは、広い意味でのあらゆる資源(サービス)への人々のアクセシビリティが均等であるようにすること。ミリューティンの「線形都市」もこの条件を満たすべく設計されている。そして実は、見た目のかたちの均質性はそれほど(いや実際には決定的に?)無関係。「線形都市」も、グリッドを拡張していくというような普通の発想よりも、線の方がアクセシビリティの均質性の純度が高い、というところが面白い(グリッドでは、たとえばその外部へのアクセシビリティに大きな差異が生まれるが、線はどの部位も均等に外部に接続している)。学生たちの提案のなかで、理論的にはミリューティンよりいいんじゃないかというのがひとつあったが、そいつは球形をしていて、形態的にはむしろ求心的なのだった。

あと、割とよくやるのが、ある事例からひとつの考え方の範型に気づいたら、それが当てはまる他の事例を発見させるというもの。つまりその範型を別カテゴリーに敷衍して一般化できるかどうかを試すのだけれど、これは同時に抽象的・形式的思考の訓練でもある。抽象化・形式化とは、異なるカテゴリー間に同一性を発見する人間の基本的能力だからだ。

たとえば住宅地の空間構造を図式的に示せ、という問題をやらせて、次に、それに似たものをあげよ、という問題を出す。チェス盤とか板チョコとかをあげてしまった人は構造ではなくイメージを見ている。洗濯バサミをたくさんぶら下げたやつをあげた人は、単位要素とそれを支える基盤構造とを見ている。そして、駐車場とか、図書館の書架配置とかをあげた人は、単位要素に対して交通空間との関係を重視している。たとえば図書館の場合、本の背表紙側を、通路に接続するフロンテージとするのが効率を最大化するわけで、実は人間がからんだ都市空間ではすべからくこのアクセス問題と効率問題が働くのだと話を進める。

今週やったのは、「遊郭/花街」のコントラスト。遊郭と花街、それぞれを説明する文章を用意しておいて、その空間形態の対比そのものを思考の範型とし、これと類似する対比のセット(○○と○○)を事例的にあげよ、という問題。学生たちは試行錯誤していたけれどポイントに気づいた人は少なそうだった。実は、遊郭とは(乱暴に言えば)遊興の街から純化された機能の単位要素を抽出してグループ化し、グループとして街に接続するようにしたもの。要するに「施設化」を考えさせるための例題。来週月曜日に謎解きして、次の問題へ。

都市形態論をいかに教えるか(復刻:2008.06.02/semi@aoao)
前回、施設化の導入のところまで書きましたが、ひきつづきビルディングタイプ論に入ります。7つほどの種別毎に(従来の)典型例とみなせる建物の外観写真と平面図をバラバラにして配り、それをマッチングさせて、その施設の種別名称を書く。するとほぼ9割方が正解になる。なぜだろう、と考えさせる。この場合、実は専門的な建築教育を受けていない人が多いという受講生の特性を逆手にとって進めているわけです(建築学科の2年生とかだったらもう図面が読めてしまうのでダメ)。

そのうえで、施設とは何だろうかと問うと、機能が特定されている、自らの内部にミチを持つ、アクセスがコントロールされている、記号的な表象が社会的に共有されている、などなどの特徴がみえてくる。こういうものが近代になってどんどん生み出されてきた。じゃ、昔はどうだったのかというと、みんなたぶん分からない。

でも答えは意外に簡単で、端的にいえば昔はすべて家だったのだ。役人も自分の家で執務したし、商人は自分の家で商売し、職人は自分の家でものをつくった。家はこういう業務機能を持ち、対面や儀礼といった社会的機能も持っていたし、それぞれの階層の人々がすることのだいたいは家でなされていた。これら機能がひとつひとつ切り出されて施設になった(実は切り出されたときにはじめて「機能」は見えるようになった)。ということは施設分化の歴史は、住居の貧困化の歴史でもあって、コインの表裏なのだよ、私たちはこういう機能タテ割的に切り分けられた都市にいやおうなく生きているのだよ、なんてまあ分かりやすすぎますかね。

そいで今日は都市型住宅論の1回目。まず前半で台湾の町家についてざっと解説。都市を構成しうる住宅がいかなる型を形成するものなのか、またそうした住宅の集積たる都市空間はどのようなパタンを持つのか把握する。ついで京都の町家街区の面的な平面図を配る。あとは練習問題。

どれが一個の宅地か、切れ目を読み取れ。個々の宅地がどのように構成されているか、参考図(模式)を用いて説明せよ(トオリニワに沿って床上空間が配列されること、ツボニワを挟むことなどを記述すればよい)。家ひとつの標準的な間口寸法をおよそ推定せよ(畳が敷いてあるので分かるはずなのだが学生たちは意外に分からない)。そこから敷地の奥行きも推定せよ。では、(1)上下水道の普及、(2)空調設備の普及、(3)自家用車の普及、以上3つの条件の変化によって町家はどのように変容しそうか、推論せよ。

こんなふうに、都市形態の捉え方(urban fabric あるいはurban tissue の捉まえ方)を段階的に立体化してゆくとともに、ちょっとずつ時間軸の想像力を交えていくようにしています。形態がなぜ論じるべき「問題」であるのかを示すのが意外に難しいんです。