日本建築にはなぜこんなにも分類があるんだろう[復刻:2005.03.04]

前任地・人間環境大学時代のブログ(semi@aoao)、大半が消滅したのですが救出できるものもあるので、たまに気が向いたら復刻します。10年近く前の記事で、思考様式が変わってないことには呆れますが、でも面白いこと書いてるなと思いました。

日本建築にはなぜこんなにも分類があるんだろう(復刻:2005.03.04/semi@aoao)
honden_hinagata3月4日(金)、建築学会シンポジウム「日本建築の様式を問う」に出席しました。僕は神社担当ということで、伊東忠太と角南隆を対照させ、「雛形的様式」と「統辞法的様式」の2つの様式理解を取り出して、これを軸にした議論をと意図しました。シンポジウム全体は、僕としてはとても面白かったし勉強になったのですが、なにせ時間が短く、じゅうぶんに議論が展開できたとはいえません。

ちょっと長文になりますが、今回のシンポジウムの個人的なまとめをしておきます。

いったい、なぜ日本建築は、こんなにもたくさんのタイポロジーを持っているのでしょうか。

建築史で神社の勉強というと、本殿形式の一覧表をまずアタマにたたきこんでナンボ、という世界があります。何だかよく分からないうちに「春日造は春日造だ」と、けっこう頭ごなしなところも。

でも本殿だって、目を凝らせばたくさんの部分から成り立っています。雛形的理解とは、その成り立ちへの問いが失われた状態です。名前がつけられ、固定されたカタチを雛形というのです。だから逆に、本殿形式の成立過程をあらためて問うときは、こんどは統辞法的に様式を捉えることになります。たとえば、非常に単純な例でいえば、住吉造みたいな古い単純な切妻屋根の、妻側に庇をつければ春日造、平側なら流造になる、と説明するときがそうです。でも、これに「春日造」とか名前をつけて、それを構成する部分要素でもあった「住吉造」と並列されるとき、ある意味でロジカルタイプの混同みたいなことがおこります。あるいは、時間的な順序が無視されるということでもある。こうして雛形は生まれます。

この種の物神化は、建築ではもっと細部におこることが多いように思うのですが、神社の場合はひとつの単体建築物のレベルでおこっているのが妙です。カタチを凝固させる力が一個の建物のレベルで働くというのは、強い政治的背景を感じずにはおれません。雛形というからには、たくさん模倣されるわけですが、実際、本殿形式は大きな力をもったローカルな神の表徴であり、同じ神を祀る全国の神社に、古殿の譲渡とか、形式のコピーといったかたちで移動・伝播していく。具体的にはこれが雛形的様式理解を強固なものにしているはずです。

ところで、ロジカルタイプの混同だとか、時間的順序の無視だとか、大げさなことを言わなくても、と思われるかもしれません。でも、今回藤井恵介先生が主旨説明で言われたように、たとえば中国にも韓国にも、建築史学のなかに「○○造」のような雛形的な形式分類のための用語はないのです。基本的には、時代区分に沿って(種別毎の、あるいは種別をこえた)建築の発展(とくに構造上の)が記述されていくだけです。ところが日本では、おそらく近世大工の世界で雛形的理解が発達し、近代の建築史学もそれに引きずられ、その隙間を埋め、要するに精緻化することに努力してきたように思われてなりません。

今回のシンポジウムで、光井渉先生の報告はきわめて明晰でした。近世大工たちが用いる「唐様」「和様」といった言葉は、中世までの支配から解き放たれて職能集団を形成した大工たちが、それまで支配の範囲に閉じられていたために疑われることのなかった前提としての様式的な併存・折衷状況をはじめて意識化し、いわば施主が選べるオプションとして分離・並列化していったものだと光井さんはいいます。近世の建築規制はまた、大工集団が互いに自らを差異化しうる部位を柱上の組物に限定したため、「唐様」「和様」もほぼ組物に限定されて捉えられ、しかも、いつでも交換可能なパーツになったのだとも。この場合、「唐様」は(神社本殿のように一個の建物のレベルではなく)組物のレベルにおいて雛形になったわけです。組物のかたちは本来的には構造的(すなわち軸組と小屋組とをつなぐ統辞法的)工夫として成立してきたものです。しかし、ここへきて組物はその内にあるこうした統辞法的意義を失なって、その全体において一個の部品になる。分解不能な部品となることで、建築全体からは分解されてしまった。これも、突き詰めていくと面白いことが色々出てきそうですが、この辺でやめときます。

ところで、建築史学史的にいうと、神社と寺院とはずいぶん軌跡が違います。仏教寺院の研究は、比較的はやい段階で学術研究として自律して、「つくるために研究する」という回路はほとんど見えないのに対して、神社の研究は、(少なくとも戦前は)「つくる」人しか行ってこなかったのですから。神社を「つくる」ことに注目するとき、その態度は明治中期〜大正期と、昭和期以降とで、まったく異なります。代表選手をひとりだけあげるなら、前者は伊東忠太、後者は角南隆です。

伊東忠太は、日本の建築史学の開拓者で、神社についても、現在までつづく雛形的分類とその発展の説明を100年前にパッと出してしまった人ですが、雛形は大工書、発展説は国学から来ているのでしょう。一方の角南隆は昭和期に内務省神社局(1940より神祇院)のトップにいて支配的な指導力をもっていた人です。伊東も角南も、過去から現在までの神社のあり方をぐいと動かして、新しい様式を導こうとした人ですが、そのやり方が全然違うのです。

たとえば明治神宮の時に、各界を代表する学者や政治家たちが本殿形式=雛形の選択で争いましたが、その中心にいたのが伊東忠太です。なにしろ明治という時代を開いたカリスマ天皇を国民をあげて祀る神社なのですから、伊東忠太も最初はやる気満々で、過去様式を踏まえながら明治あるいは大正の新様式の創出を目指そうとしましたし、鉄筋コンクリートの採用すら考えていた。神社といえども、国会議事堂の様式論争なんかと同じなわけです。実際には、この新様式創出の方向性は挫折してしまうのですが、忠太としては、雛形の一覧表に、いずれ「明治造」みたいな新しい雛形が追加されることを目指していたと考えられます。

鈴木博之先生は今回、単純化していえばタイプ一般とスタイルを区別されました。瞬間的に誰かがつくったカタチは、他とは区別できる傾向性を持っていても、様式という言い方はしない(これをたとえばタイプと呼ぶ)。様式=スタイルというのは本来は時間をかけて生成・変化していくプロセスを含む概念である。その意味では、忠太もやはり様式(スタイル)をこそ考えていた。なぜなら忠太は、神社の本殿形式を、あらためて時間的に前へ押し出せるはずだと考えたからです。ただ、様式というのは、それができあがった後に、この社会が時間をかけてコレをつくり出したのだと振り返って語ることしかできないわけで、自分の作品がそのまま「様式」になる必然はなく、したがって自分の作業はそこに向かう投企であればよい。だから忠太の設計する神社は、基本的にはどれもカタチが違うのです。ただ、面白いことに、社殿群の配列の形式という視点でみると、どれもまったく同じで、彼は神社という環境を構成することにはあまり関心がなかった。

角南隆はこれと全く逆です。角南にとって本殿形式は大した問題ではありませんでした。古い神社の改築なら現存本殿を保存すればよいし、新規につくるなら一般性のある流造を採用しておけばよいと思っていたからです。彼が追求したのは、神を祀るとはどういうことか、祭を行うとはどういうことか、神社を経営するとはどういうことか・・・、その包括的なプログラムを、いわば建築によって新しく組織しなおしてしまうことでした。だから、個々の社殿の造形よりも、それらをつなぐ仕方が問題で、社殿を接続したり、廻廊を多用することで、人の移動(の可能性)の束を設計した。僕が見るところでは、単語をつなぐ統辞法を彼は開発して、あとは必要にあわせて、その統辞法にしたがった文章を書けばよいというところまでいきます。だから、短く簡素な文章も、長く豊かな文章も、同じ統辞法で書かれていて、要するに角南を中心とする昭和期内務省系のデザインだなということは、実物か図面を見れば分かります。

神社を建築群や庭や森による環境構成だと考えれば、忠太はその部品のひとつである本殿形式を、角南は全体の統辞法を、それぞれ創出すべきものと考えていました。だから忠太は雛形的様式理解を、角南は統辞法的様式理解を、それぞれ代表するわけです。ただ、角南らが、統辞法のレベルで確立した一種の様式を、その個別の現れのタイプにおいて名付け、固定してしまえば、それはまたひとつの雛形です。帝国全体で、数年の間に一挙に数十社が造営された「護国神社」などの場合は、境内全体が雛形として成立してしまったと考えてもよい。雛形的様式と統辞法的様式は、どんなレベルにも見いだせるし、また互いに反転しうるのです。本殿だけの「住吉造」と、人の拝礼空間がくっついた「春日造」や、ひどい場合は「権現造」までが並列されうるのですから、境内全体レベルの「護国造」も並列されうると考えるのが道理でしょう。

さて、鈴木先生の指摘によれば、様式概念は時間的生成・変化を含む概念として登場してくるが、19世紀の西洋では(そしておそらく日本の大工の世界でも)古今東西の様式が時間を失ったタイプとして並列化されてしまう。おそらく、それにもう一度時間軸を持ち込もうとするイデオロギーが、進化論とか、発展段階説みたいなものでしょう。ファーガソンフレッチャーもそうで、ヨーロッパの様式は並列されつつも時間的発達を強調したものだけど、アジアははじめから地理だけで、時間がない。忠太は日本についても時間的な様式概念をなんとか構築しようとして、時代区分は設定するのだけど、内実はビルディングタイプや地域、神や宗派によって異なる無数のタイプが出てくる一方で、そういうタイポロジーを横断して共通にとりだされる傾向が、時間的に変化していくという物語を書けなかった。今も、誰も書けていません。もっとも忠太は、将来にむかっては(つまり近代の日本建築を「つくる」という方向では)その物語を実現しうると考えていたでしょうし、その後のモダニストたちもそれは同じだったと思いますが。

いったい、なぜ日本建築は、こんなにもたくさんのタイポロジーを持っているのでしょうか。

別の日の記事(2005.02.15)によればシンポジウムのプログラムはこんな感じでした。

●タイトル 日本建築の“様式”を問う
[内容主旨]
 建築が多くの人に見られるもの、すなわち外観が重要な要素である、ということが確かならば、それの形がもつ「様式」は、常に新しい問題を提供する。
 日本建築史において「様式」は決着がついているのだろうか? 和様、大仏様、禅宗様、という三つの様式が存在した、という定型の語り口があるが、それでは、住宅の「様式」はあるのだろうか? さらに神社では? はたまた和様、大仏様、禅宗様における「様」とは「様式」のことなのか? 
 「様」を「様式」と説明するのは、西欧の概念を深く検討せずにそのまま言い換えただけではないのか? そして、日本においては「様式」という概念はあり得るのか、はたして有効なのだろうか? などなど。少し考えるとちゃんと議論されていないことが次々と出てくる。このような問題を、西欧建築の研究者の参加を得て、自由に議論してみよう。

●プログラム
[主旨説明]‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥藤井恵介(東京大学
1.「住宅と寺院の様式対立」‥‥‥‥‥‥‥‥‥川本重雄(京都女子大学
2.「神社建築に様式はあるか」‥‥‥‥‥‥‥‥青井哲人人間環境大学
3.「近世における和様と唐様」‥‥‥‥‥‥‥‥光井渉(東京芸術大学
4.「西欧建築史からみた日本建築の様式」‥‥‥鈴木博之東京大学
討論・質疑(30分)

●日時  2005年3月4日(金)18:00〜20:00
●会場  日本建築学会会議室
●定員  60名(先着順)
●会費  会員1000円、登録メンバー1200円、会員外1500円、学生500円(資料代込み:当日徴収)