再論:新国立競技場コンペ問題について

 新国立競技場をめぐる議論が活発化している。5月28日に基本設計完成の報道があり、反対の発言や対案の発表が相次ぎ、マスコミでも小さな報道特集的なものが組まれ、6月15日には神宮外苑と国立競技場を未来に手わたす会が主催した緊急シンポジウム(会場は日本建築家協会・建築家会館)が行われた。ツイッター等でも色々な発言や批判・反論の応酬があるようで、僕はツイッターはやらないのだが、見はじめるとリンク構造にハマって次々にあちこちに飛ばされてしまいだんだん錯乱してくる。どうも議論は拡散気味というか、きちんとした情報が共有されていなかったり、恣意的に歴史的事実が使われたり、あるいはまたポリティクスへの拒絶反応さえあって混乱はいや増すばかりではないかとさえ思える。僕は昨秋、求められて「建築コンペティション政治学──新国立競技場コンペをめぐる歴史的文脈の素描」という文章を書き、 10+1 website(2013年12月号)に寄せた。この文章も多少は読まれているだろうし、ツイッターを追ってみた感じではひとつの参照軸として活用されている節もあり、また誤解を招いているようでもあり・・・という気がしてきたので、あらためて少し書いておきたいと思った次第。

 この文章では、新国立競技場問題を、コンペ史のパースペクティブに位置づけることがお題として与えられ、僕としては、コンペは「ポリティクス」に他ならず、また「エコノミクス」と密接に絡むものである、という当然の観点から近代日本のコンペ史をおさらいすることにした。結論的には、新国立競技場コンペもこれまでの歴史の線上に乗る、つまり過去に何度も反復されていることがここでも起こった、あるいはいつも伏流している構造的な問題が今日の政治経済状況のなかでいくぶん特殊なかたちで顕在化した、というような見立てが説得力をもつだろうと判断した。
(ここでは民主主義的といわれる社会における公共財の創出ということに視野を限定して話をするが)まずコンペは、多様な立場や意見があることを前提としつつも何らかひとつの回答(設計案)を得なければならないときの合意形成の方法のひとつである。言い換えれば、施主である納税者の多数・多様な意志をひとつの設計案で代表させることは可能か、という課題に答えるひとつの政治的な技術なのである。
 加えて、専門性という問題が絡む。建物なんてたいていは専門家がいなくても建つものだが、素人に設計できない類いの建物もある。ここにも、代表という仕組みを必要とする事情がある。
 コンペはこうした二重の代表を実現する仕組みとして、政治的意義を持つ。もちろん、設計者はその専門性に根ざして自律的に公共的な価値を探求できなければいけない。西欧では、このような専門家を「建築家」と呼ぶ。ところが審査委員が素人ばかりでは以上の立て前は無意味。だから審査委員もまた専門性に基づいて自律的に公共的な価値を評価できなければならず、少なくとも過半数は「建築家」とする、というのが規範とされてきた。

 実際には、19世紀以降、この「専門性」の領域が肥大化したために話は一層複雑であった。つまり産業革命・市民革命を経て、高度に専門的な知識・技術に委ねざるをえない問題領域がどんどん拡がり、さらに戦争や高度経済成長を通過することで、専門性は大企業と官僚機構とに相当程度まで集約(掌握)されるようになった。欧米でも19世紀後半には設計部門をもつ建設業が勢力を伸ばしたし、アメリカでは1930年代にはすでに超大型の組織設計事務所が育つ。1960年頃までの日本では官庁営繕という官僚組織が公共財の設計を担うのが当然とされたが、60-70年代以降はゼネコン設計部、ついで組織設計が伸びた。
 欧米では、だからこそ利益追求から自律した「建築家」をコンペの唯一の参加資格としつづける努力が払われてきたが、日本のコンペ史を辿ると、むしろ時代によって様相ががらがら変わるのを観察できる。1930〜50年代にはコンペで設計案だけを選んで実際の設計は官庁営繕が行う例が珍しくなかったし、建築が大規模化し、技術的にも高度化していく60年代以降のコンペではことごとく大手ゼネコン設計部が勝利した。こうした事情からして日本のコンペ史は社会的な合意形成(代表)の問題というよりも、建築生産の経済的実情(エコノミクス)が切り離しがたく反映される歴史であったといわねばならない。「建築家」の地位は、その政治経済的意義は意識されつつも、なかなか思うようには確立しなかったのである。
 問題は、しかし西欧的「建築家」の成立そのものでは必ずしもない。重要なのは、複雑な社会の意志をいかに専門家に託すかという問題が、公正でオープンな仕組みとして形式化され、それが特定の利害に左右されぬように透明に遂行され、その結果が堂々と世に問われること、であろう。そして、今のところコンペという形式の他によりよい方法がないことを私たちは歴史的に承認しているとみなさざるをえないし、それは西欧的な「建築家−社会」関係と論理的に整合するものであることはさしあたり認めなければならないのではないだろうか。

 新国立競技場のコンペでは、グローバル・シティとしての国際競争力を高めるためのオリンピック招致という文脈が支配的ななかで、近年の世界的な巨大開発の定式、すなわち

[デザイン監修:アーキスター]+[基本・実施設計:大規模組織型デザインファーム]

という設計体制が想定され、これを下敷としたコンペが企画・実施されたのではないか、と10+1 website の記事で僕は書いた。実際、件のコンペ(日本ではコンクールと称された)では「デザイン監修者」なるものを選び、その後の公募型プロポーザルで基本・実施設計者を選ぶことになっており、後者のプロポーザルには日本の大型組織設計事務所がずらりと名を連ねた2つのグループしか参加していない(事前調整なしにこんな編成はありえない)。いうまでもなく実際の結果は、[ザハ・ハディッド+日建設計他JV]である (注)。

(注) もう少し丁寧にいうと、コンペ(コンクール)後にまず公募型プロポーザルで「フレームワーク設計者」が選ばれ、それが事実上そのまま「基本設計・実施設計者」に移行していった。大手組織が2手に別れて応募した、と書いたのは、このフレームワーク設計者を選ぶ公募型プロポーザルのことである。10+1 website の記事にはこのあたりのことも書いたので参照されたい。

 もし、コンペの枠組みが[アーキスター+地元組織ファーム]という図式を前提としていたのだとしたら、それはコンペを通して市民・国民の意志をいかに代表させるかの回路にあらかじめ強いバイアスがかかっていたということであり、これまたあまりにも建築生産とその背後の政治経済状況の露骨な反映と言わなければならないし、設計者の意志や思想が貫徹されているとは思えない設計変更が行われてきたコンペ後の経緯も、設計者への委任(代表)の仕組みがきちんと働いていないことの証左と見るべきだろう(設計者が納得するかどうかの問題じゃなく、コンペによる選考というかたちで納税者の委任を受けた設計者としての責任の貫徹の問題)。こうしたことの事実関係をしっかり記録に残す必要は少なくともあるのではないか。将来の歴史家はきっと、建築設計のありようがネオリベラリズムの嵐のもとでどのように変形したのか、そして、それがいかに公共財の設計者選定の枠組みにまで影響したか、また、従来型の「建築家」の職能像(社会的な委任をうけ、社会を代表する建築家)がこの構造の前でいかに無力であったか、そしてそれがいかに構造的問題であると同時に歴史的問題でもあるか、を示す出来事としてこのコンペを位置づけるだろう。このあたりのことをきちんと踏まえて議論をしている人はほとんどいないように思う。

 くどいが確認しよう。アーキスター(archistar/starchitect)から強いアイコン性を買い、実質的な品質保証や設計変更への柔軟な対応には日本の大手組織設計事務所が結集して当たる、というような枠組みがあらかじめ定められていた、と僕は推測している。これは、ある意味では佐野利器以来のいわば「技術ナショナリズム」的な構図の再現でもあって、これも歴史的に無視すべきでない論点だと思うのだが、それはさておき、こういう体制が勝利すれば、先に言及した「建築家」の確立を主張してきた建築家協会が憤りの声をあげたとしても不思議でない。しかし、これが家協会の党派的運動みたいなことになってしまっていることそのものが日本という社会の歴史的現実であることはきちんと認め、引き受けなければならないだろう。
 僕は、槇文彦さんが批判の声をあげたことについて、それを否定する意見には絶対に与しないが、過去のコンペと建築家の職能問題に関する歴史的文脈をカッコに括ったまま、槇さんを、党派的運動の神輿に担いだようなかたちで社会的に浮いたポジションに置いてしまっている運動全体のありようは決して好ましいものではないと思っている。もっとも、広範に及ぶ市民・国民的関心はないのが実情で、ゆえに市民・国民が気づいていない?問題の所在を明らかにしながら、いわば未来の市民・国民の代弁者として啓蒙的に振る舞わざるをえない構図はやむをえないところがある。しかし、どんな言葉も、日本の建築家職能確立運動の惨憺たる歴史を含む、日本近代における「建築家−社会」の諸関係が辿ってきた歴史を引き受けたかたちで発せられないと、あまり説得力を持たないのではないかとも思う。

 さて、最近の論調であるが、建築家および市民団体による運動に対して、かなり批判的な立場を表明する人、あるいはある種の嫌悪をすら示す人が増えてきたようで、これに対する反論も当然おこり、ツイッター等をみるかぎり、せっかくこの問題に高い関心を持つ人々が、互いに対立・分裂するような様相も見えている。基本的に意見の自由な表明を抑圧すべきではないと僕は考えるので、いくら自由とはいえ抑圧的な効果を生むような意見にはきちんと釘を刺しつつ、堂々とした議論が展開されるべきだと思う。ただ、それがそうもいかない理由に、やはり歴史的な文脈の厚みがあることは疑いない。繰り返すが、コンペ審査委員も、反対運動の担い手も、また他の立場から発言している人も、是非この機に自身を取り巻く歴史的なパースペクティブを明らかにする作業を自らに課してほしい。

 また、このコンペや設計案に対する反対運動や批判的発言に対して、「これだから左翼はイヤ」とか「あいつらは資本や国家はぜんぶ頭ごなしに批判する」みたいな発言も(当否は別として)絶対に許せない。

 もうひとつ最近散見されるのは、「建築の本質論が忘れられている」、「建築は手続や政治の問題ではない」とか、あるいは「あのコンペは要するにどんなシンボルを選ぶかの問題であって、民主主義とか代表・委任とかは筋違い」といったような意見である。繰り返すが、どんな意見も抑圧すべきではない。だが、この種の意見は的外れであるだけでなく、場合によっては重要な議論を封じる効果を持ちうるのでその点は指摘しておきたい。私たちは、紆余曲折ある歴史を通して、かりそめにもコンペという政治技術を認めているし、である以上はコンペにおいて審査委員会に設計者の選考を委任しているのだと考えなければならないから、コンペで選ばれた設計者がその責任を全うすることを支持するのが筋である。どうしても結果に納得できなければ、市民運動・国民運動の力で今回の審査の結果あるいは成立を白紙に戻すことはできる。そうすればコンペという政治技術そのものを否定するのではなく、今回のコンペの技術的な誤りを糾せるからだ。逆に、運動が圧力になって設計変更がズルズル起きるようではコンペという政治技術そのものが骨抜きになってしまう。いずれにせよ、コンペという形式が備える政治的合意の技術という側面を無視して、デザインの問題だけを論じることはナンセンスだと言いたい。

 僕自身は、今回のコンペ結果を否定しようとは考えていない。むしろこれを現在の私たちの歴史的な現実と捉え、その上でこの間の経緯についてできるかぎり客観的で詳細なドキュメンテーションをつくって残すべきだと思う。また、議論は尽くすべきだと思うが、正確な情報に基づき、歴史的なパースペクティブを自ら明らかにする努力とともに語るべきだと思う。こういうことのために後方から支援することは僕にできる仕事だとも思っている。