山岸剛 写真展 "Tohoku: Lost, Left, Found" をみて

たとえば、この前年の、よく晴れ上がった秋空を、その空の極みとでも言いたい高空を、ほとんど幾何学的なまでに真直ぐな、四条の白い航跡を引いて飛んで行く、偵察用のB29機などは、その純粋に金属的な、一点の銀の色に、むしろ一種の、科学的感動をさえ喚び起こされたものであった。(堀田善衛方丈記私記』1971/ちくま文庫,1988,p.15)

堀田善衛(1918-98)は、この醒めた感慨のすぐ後、焔のなかに逃げ惑う人々を思い、『方丈記』の次の一節を想起する。

火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一二町を超えつゝ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。

「現(うつ)し心あらむや」   生きた心地などすまい    そのようなことを言っても何もならぬではないか、そう堀田は思う。平安末の京を焼く火と、頭上を泳ぐ「巨大な魚類」の大群が供給しつづける東京の炎とを重ね、「何を言ってやがる」と。しかしふと、その鴨長明こそが持ちえた実践性に思い至る。

・・・その中の人、現し心あらむや、何を言ってやがる、などとぶつぶつと独語をしていて、しかし卒然としてその節の全文を思い浮かべてみると、それが都市に起こる大火災についての、意外に(と言ったら鴨長明に失礼なことになるが、と思いながら)   意外に精確にして徹底的な観察に基づいた、事実認識においてもプラグマティックなまでに卓抜な文章、ルポルタージュとしてもきわめて傑出したものであることに、思いあたったのであった。(『方丈記私記』文庫, p.17)

このとき堀田は、戦時中におけるロマン主義的、芸術至上主義的なものの心地よさといわく言いがたい確からしさを、相対化する。鴨長明の同時代人に藤原定家がいるが、戦時中の堀田は実際、フィクショナルな美の世界を強制する歌人定家の文化的な懐の深さの方に、よほど慰められたという。しかしその心情が、ふとした瞬間に気づいた『方丈記』のルポルタージュ的実践性によって動揺し、やがて否定される。
 『方丈記私記』で堀田は、定家に連なる心性を批判し、長明の実践性を再評価しながらそれをも乗り越えようと模索するのだが、しかしそのためにも長明と自身とを二重写しにするようにして『方丈記』を切実になぞるという課題を自らに強いている。たとえば堀田は、歴史そのものを長明に教えられたという。『方丈記』の、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり」という文に、「もし歴史がなかったならばありえない筈の、ある不安の感」(『方丈記私記』文庫, p.91-92)に襲われるのだ。私たちの歴史性の基準である国家なぞいつか消える。そのときのっそりと顔を出すものこそ歴史なのだという感覚。そして堀田は、災害のルポルタージュたる『方丈記』がなぜ「人間の住居」をめぐる論の形をとるのかと問う。もちろん、国家も目の前の現実においてはそう簡単に消えるわけではないが。

 山岸さんの写真展(山岸剛写真展「Tohoku: Lost, Left, Found」)を見はじめてまもなく、一枚一枚に写し込まれた風景に、たぶん二重性といってよい構造があることに気づいた。写真を撮る自分などどうでもいい、写真は事物のありように関するレポートルポルタージュなのだと山岸さんは言うが、それが山岸さんの視角の構造でもあることは疑いない。たとえば2011年3月17日夜に撮影された川崎市の夜景は、計画停電で漆黒の闇になった建築(住居)と、その谷間を走っていく自動車のヘッドライトの鮮やかな航跡とからなる。その二重性が何に由来するのかを私たちは考える。ほとんどすべての写真に、こうした二重性がある。分かりやすいものも、分かりにくいものもある。展覧会で最も大きくプリントされた広田海岸の美しい風景のなかの二重性は、相当に入り組んでいる。
 あるいは大槌町の、ほとんど被害らしい被害が見えない集落の風景。丘陵を縫って流れる川の流域の家々が、きわめてよく似た年齢のものばかりであるのは異様だ。その均質さに促されて、私たちは画面の外のもうひとつの現実とのあいだにこそ、この写真が問う二重性があるのだと気づく。多数の二重性が提示された写真展である。
 そこまで見て、この展覧会のタイトルが「Lost, Left, Found」であったことを知る。よいタイトルだと思う。失われたものと残されたものとが、風景の巨視的なレベルだけでなく、ぞっとするほど冷酷な低声で事実を報じる細部の関係においてもくっきり読み取れ、僕たちはその二つの層のあいだを往来することになる。堀田が長明を介して気づいた歴史の実在性という問題がここにもある。
 ポンペイの廃墟をみたときのル・コルビュジエの文章が僕は好きだ。

威厳ある大きさ、秩序。立派な広がり、一人の〈ローマ人の〉ところにいるのだ。それらの部屋は何のためにあるのか? それは問題外だ。二十世紀の後、歴史的な暗示なしに、建築が感じられる。それだのにこれはごく小さい家なのだ。(『建築をめざして』1924/吉阪隆正訳, SD選書・初版1967, p.141-142)

彼はポンペイに見入りながら、同時に、自分の眼の構造を実感している。「それらの部屋は何のためにあるのか? それは問題外だ」と彼がいうとき、機能が相対化されているのは事実だが、もっと重要なのは、普通にいう歴史性(歴史規定性)が相対化されていることだ。だからこそ、彼は二千年をこえて伏在するとしかいえない歴史の実在性を自分の眼の構造に見出し、震え、いくらかは怯えている。ただ、ル・コルビュジエには「建築」への絶対の信頼があった。狭い意味の機能なぞ、いずれ相対化される歴史性の問題だと彼は言っているのだが、その気づきはもっと大きな「建築」への確信から来ている。長明とは違う。僕もル・コルビュジエポンペイが好きだと書いたが、もう少し違う時間のありようを主題にせざるをえないし、そのための方法の構築が課題だと考えている。堀田もこう書く。

また後日に、ヨーロッパを旅行して、石造建築物を栖とする人々の時間観念、あるいは歴史観、または歴史と伝統を貫いて行こうとする理性、さらにはそれを変革しようとする革命観、革命のための理性といったものに思い及ぶとき、そこにおのずからまったく異なった世界観があるということにも、当然、当時としては思いも及ばなかった。(『方丈記私記』文庫, p.19)

 「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり」と書いた長明は時間の亀裂を見たが、ル・コルビュジエは「我々の伽藍、それはまだ建てられていない」と未来に戦慄した(『伽藍が白かったとき』生田勉・樋口清訳、1957/岩波文庫、2007)。堀田は定家を相対化したが、しかし長明を超えるとしたら、どこに向かいえたのだろうか。

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