10+1 website 2014年3月特集「伊勢/式年遷宮:古代建築と反復の神話学」公開

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10+1 website 2014年3月特集 伊勢/式年遷宮:古代建築と反復の神話学

昨年編集部から伊勢神宮特集をとお話をいただいたときは正直躊躇したが、いつもどおり、引き受けてから悩め、と自分に言い聞かせて頑張ってみた。『伊勢神宮:魅惑の日本建築』(2009)の井上章一さん、『神々の闘争:折口信夫論』(2004)の安藤礼二さんから、どんな議論を引き出すべきか。正直そんなこと言えるような知識も力量もないのだが、少なくともタウト〜丹下〜磯崎の言説みたいなことだけで済ませてしまっては何にもならん。この際、古代における伊勢神宮や神社の成立と王権・・といったことについて近年の学説なども紹介しつつ骨太にパースペクティブを描く契機にした方がよい。政治史的・思想史的な循環や平行性の視点からむしろ近代も相対化される、そういう長期的な歴史の構造を浮かび上がらせることが重要なのでは・・・などと(自分には)無謀なことを考え、甚だ不十分な付け焼き刃ではあったが出来るかぎり準備した。色々な本を読んだが、何といっても井上さんの本が全体にわたる導き(タテ糸)になったことは言うまでもなく、また安藤さんの本は折口信夫を介して民俗学さらには宗教の問題へと視点をパラフレーズしつつ拡張していく触媒(ヨコ糸)になった。車を飛ばして奈良・大阪へ行き、纒向、唐子・鍵、池上・曽根などの関連する遺跡を訪ね、絵画土器などの出土品もじっくり見てきた。とても勉強になった。
 それで偶々なんだけど、2014年2月11日の建国記念日記紀のいう神武天皇の即位の日)に、京橋のLIXILの会議室にて3人で話した。テキスト4万字を超えてしまった。心意気のある人が読んでくれることを願う。
 伊勢神宮を含む神社建築の成立史については・・・素人の薮睨みだけれど、僕の感じでは・・・、まずは丸山茂さんの非常に明快かつ説得的なシナリオを踏まえるべきだと思う(『神社建築史論:古代王権と祭祀』2001、あるいは『日本建築様式史』1999に所収の古代中世神社建築史)。丸山さんは、まず、伊勢神宮をはじめとする神社のイメージを、「神社」と規定されるものが存在しない時代の祭祀の場へと無批判に遡らせることを批判する。そんなの当然だと思うでしょ、でも神社建築の成立やらそれ以前の弥生・古墳時代の「祭殿」の復元なんかは、このルール違反をずーっとやっている。きちんと検討してみたら連続的だった、というのならよいのだけど、神社は日本固有のものだから、古墳時代あるいは弥生時代だって似たようなものがあって、まあ洗練はあっても基本的なところはずっと連続しているだろう、というように考えられてきた。それに対して丸山さんは、「神社」というインスティテューション(施設=制度)が7世紀後半の天武天皇による神祇政策、すなわち地方豪族の祭祀権を収奪して天皇に集中させ、かわりに全国の神々に「神社」という制度的枠組みを与えるという政策(官社制)において出現したのであってみれば、このとき「神社」の名で呼ばれたものがどのような儀礼的内容をもち、どのような建築的な形式をとっていたか、そしてその頂点に位置づけられた伊勢神宮にはどのような祭祀と建築が与えられたのか    これらの問いにまずもって答えていく必要がある、と考えた。
 実は弥生・古墳時代の社会集団の儀礼の建物を指す「祭殿」という呼称は、官社制以前の時代に「神社」という言葉を用いることができないために便宜的につくられた呼称だ。おいちょっと待て、と思った人もいるのではないか。ひょっとしてそれ、ルール違反のカムフラージュなんじゃ? あちこちで神社の神殿っぽい「祭殿」が復元されてるけど、ホントにそんものあったの?   と。
 しばしば「祭殿」として復元されるのは、妻側に独立した棟持柱をもつ大型の建物跡であり、それはたしかに伊勢神宮を連想させる。しかし、それとて、柱配置が似ているにすぎない。鼎談で井上さんや安藤さんが指摘するように、儀礼の広場に壁も床もない吹き放ちの大型屋根、という情景だってありうる。神といっても憑依神であり、儀礼といってもシャーマンによる交霊であったとみられ、人が頭を垂れて奉祀する神は古代神祇政策とともに制度化されるらしいから、建築の前提であるプログラムも変化したのだろう。いずれにせよ、地方豪族がその祭祀権を収奪された代わりに与えられたのが「神社」だったとしたら、それ以前の祭礼の内容や施設は、システム的に創出された「神社」とは異質なものであったに違いない、と考える方が理屈に合っている。少なくとも、それ以前の建築に与えられていた宇宙論的・社会構造的な象徴体系が、何らかの地殻変動を経験しなかったとは考えづらい。建築の原理は、もしこれほどの変化があったとしたら、容易に保持されうるものとは思われない。
 その意味で、弥生時代中期の池上・曽根遺跡から出た独立棟持柱付きの大型建物を、宮本長二郎氏やそのフォロワーたちのように伊勢神宮風にしなかった浅川滋男さんのあの設計は重大な意味を持っており、(少なくとも結果的には)政策のインパクトを重視する丸山さんの歴史観と親和性があるように思う。
 こう考えていった場合、最大のチャレンジとなってくるのは、ヤマト王権時代(3c初〜7c半)の意義をどう測るか、という問題ではないか。このことに建築史分野で真っ向から取り組んでいるのが最近の黒田龍二さんの仕事で、黒田さんはヤマト王権初期(3世紀)のオオキミの居館とみられる纒向遺跡の建物群のなかに、伊勢神宮出雲大社の原型を見出している(『纒向から伊勢・出雲へ』2012)。詳細は本を当たってほしいのだが、この研究の特徴は、『日本書紀』の崇神紀・垂仁紀を信頼するという特異な立脚点と、厳密には9世紀以降の姿しか分からない伊勢神宮の建築形式を3世紀の建物跡に投影してしまうという(宮本長二郎と同様の)跳躍、にあると言わざるをえず、あまり説得的とは思えない。むしろ、ヤマト王権時代とは東アジア情勢の激変のなかで列島の権力構造ががらがら変化していった時代であり、権力構造の再編は必然的に神話や儀礼の書き換えを伴わなければならなかったのではないだろうか。
 そうした書き換えが在来の神(憑依する神)や儀礼(シャーマンによる交霊)との間にかなりの緊張や矛盾をもたらしたであろうことは想像に難くない。そこに、すでに中国から導入されていた仏教・儒教道教などが絡むから、天武により創出された「神社」概念は、むしろその後、このひとつの言葉のなかに相当の多層性・多様性を含み込むことになるだろう。その複雑さは、のちの山岳宗教や本地垂迹とかを想起すればよく、それらは「神社」という枠ではすくいきれない古い在地の信仰があらためて仏教などと混交し、「神社」という枠組みをハックして顕現したものだったりもする。宇佐神宮日吉大社、八坂神社といった本地垂迹系の神社の建築的多様性もなかなかのもの。それらはいま述べたような複雑な諸要因の関係のダイナミズムから来るのだと考えると面白い。
 実際、近世の「神社」は、天武が想定したのとはまるで違って、相当に猥雑きわまりない状態に至っていた。にもかかわらず、わたしたちが天武の改革を比較的想像しやすいのは、明治の王政復古にあたって組み立てられた神祇政策のシステム的性格と、その(一般に国家神道体制と呼ばれる)システムがやがて1920ないし30年代に直面する「帝国」という問題のもとでより一層のシステム的純化を果たしていった歴史と無縁ではないだろう。建築でいえば、角南隆(内務技師、神社局造営課長)はまことに「官社制」にふさわしい建築設計方法を確立した人だった(伊東忠太は彩り豊かすぎて18〜19世紀パラダイムの人って感じだなあやっぱり)。あんまり根拠はないけど、20世紀中盤以降の「神社」はたぶん歴史的に最も均質化された(個別の来歴に由来する宗教性を消された)状態なんじゃないかと思ったりする。この近代の神祇システムとの緊張・矛盾が何を生み出したかを見るには、安藤さんが鼎談のなかで繰り返し指摘している教派神道(宗教としての神道)の複雑な興亡をみるのがよいだろう。鼎談では言及されていないが、原武史の『出雲という思想』は非常に面白い。こうした意味で、近代と古代とはよく似ており、平行的なのである。