建築雑誌2013年11月号・特集「「建築家」が問われるとき:自己規定の軌跡と現在 When "Architect" Is Called into Question: Past and Present Self-Definitions」

cover_201310 今号担当は青井と竹内泰さん(宮城大学)だが、日埜直彦さんには、平良敬一氏へのインタビュアー、論考の執筆者というだけでなく、何度か議論の相手になっていただいたり、執筆者を紹介いただいたりと、企画段階から大変お世話になった。今号企画のあらゆる部分に日埜さんとの議論が色濃く反映されている。心から感謝申し上げたい(もちろん、最終的な企画は編集部の責任に帰すものであり、以下の長文も青井が書いたものなのでその点留意願う次第)。
 さて、今号の特集は、現代日本の「建築家」像を歴史的に捉え直し、そのことにより歴史の書き直しも試みる、といった企画だが、たぶん、読者の多くは記事のラインナップがずいぶん偏っているんじゃないかと首を傾げられたのではないか。いや実際、網羅性にはあまり配慮していないからバランスは決してよくないのだが、それも編集上の意図があってのことではある。この点、誌上では分かりづらいと思うので、この場を借りて補いたい。
 まず表紙を見ていただきたい。近代日本の「建築家」像の布置を代表する5つの言説をとりあげている。辰野金吾時代の「建築家」像の未分化な状態から、佐野利器ら構造派=社会工学派による最初の亀裂が入り、堀口らの芸術主義が対立し、マルクス主義勢力が現れ、モダニスト陣営が形成され、というようにして、4つの異なる立場の布置が1930年代までに出来上がる(表紙では、本号への導入になることに配慮して、戦後間もなくの言説状況まで引っ張っているが)。この4つは、日埜さんの論考「複数なる建築家について」で立てられている「四つの指向」と(同じではないが)おおむね対応していると思う。

 さて、「パースペクティブ」において示したように、戦前1910〜30年代、あるいは戦後1950〜70年代は建築家像が揺さぶられる時期である。その激動のプロセスのなかで、同時代的には大きな存在感を持ちながら、のちに「歴史化」されるとその姿がぼんやりしてしまっている(あるいはほとんど消されてしまった)のが、左派である。左派の潮流こそ、(1)社会にとって建築はいかにあるべきか、(2)そのために設計者はいかにあるべきか、というジェネラルな問いが発せられる場であり、1920年代から60年代まで建築運動の原動力はだいたい左派的潮流にあったとも言える。
 (1)は彼らの社会意識・民衆観などとして言説化され、(2)は端的には共同設計という試みとして現れた。後者はやや分かりにくいかもしれないが、社会あるいは民衆のことを考えるならば、一方で個人の名声・権威のために設計プロセスをブラックボックス化したり、あるいは観念的・操作的な回路に仕立てたりする芸術家的志向性も、また他方で事務所の利益のために標準設計を安易に繰り返すような経済優先の態度も、同様に批判されねばならず、ゆえに設計者間は対等な共同(恊働)関係とし、民衆とも真摯に議論を重ねる、そうした「民主的な設計組織」を獲得しよう、ということになる。
 しかし、ジェネラルな統整的理念を掲げた運動はそうそう簡単に報われるものでない。挫折とともに、人は私性、個別性、局地的な脈絡、ミクロな力学といった回路に「内向」する傾向がある(あくまで傾向的パタンだけど、そういう歴史が十分書かれていないだけで、実際はけっこう多いと思う)。ミクロな場の論理を探求することでしか、マクロな宇宙につながる普遍的論理に至ることはできない、というようなメンタリティもそのとき胚胎しやすい。その最たる例が、68年の闘争の世代が70年以降にみせた振る舞いだろう。
 そして、歴史のなかではこういう挫折→内向というかたちの転向のパタンが何段階か起こっていて、その都度、つまり転向によって舞台に上った芸術家的建築家をメディアが支持し、それを学生と教育がフォローし、悪いことにはこの転向後の芸術家の言説・作品を並べて歴史が描かれてしまったりもしている。だから左派は実は多くの建築家にとっては若き日の姿であって、しかも歴史からは消えてしまう、つまり多くの世代が経験した捻れを消すかたちで歴史は書かれる傾向にある、ということなのではないだろうか。単純すぎる見立てだろうか。

 このようなわけで、本号特集では、上に述べた、左派におけるジェネラルな問い、すなわち(1)社会意識(社会にとって建築はいかにあるべきか)と(2)設計組織論(そのために設計者はいかにあるべきか)に焦点を当てている。第1部の平良氏インタビューがあのような内容になっているのもそのためだし、第2部が創宇社、RIA、大高正人・・・といったラインナップになり、3.11以後を展望する第3部でも集合知やコミュニティが問題にされているのも同じ理由からである。ただ、土居義岳先生には、可能なかぎり最大のパースペクティブで日本の建築家を捉え直していただきたいという乱暴極まりない依頼を差し上げたのだが、その論考のタイトルを「ラスキンの呪い」とされたのにはいささか驚いた。さすが鋭い。
 実際、執筆者の皆さんに原稿をお願いする段では、以上のようなパースペクティブをそれほど明確に示すことができたわけではない。個別記事のイメージに即して依頼をさしあげたというのが実情に近いが、頂いた原稿に目を通しつつ、レファレンス(文献案内)のページをつくるために戦後〜70年代の文献を手当たり次第にかじり散らしていくうちに、少しずつああそういうことなのだなとわたし自身がそれなりの感覚を持てるようになってきた、というのが編集担当者としての偽らざるところである。そういう意味では、ただでさえ依頼が「重い」のに加えて編集部の曖昧なディレクションに執筆者の皆さんは大いに頭を抱えたのではないかと拝察するが、にもかかわらず力のこもった原稿を寄せていただいたことに厚く感謝申し上げる。
 はたしてこの特集のメッセージがどの程度読者に届くものか、正直なところわたしには予想がつかない。繰り返すが、執筆者の皆さんから頂いた原稿は、いずれも力のこもったものばかりだ。ただ、何せこの種の議論が行われなくなって久しいし、編集サイドの力量不足で原稿の魅力が読者に伝わりにくくなってはいまいかと恐れている。それでも、この種の議論を回復する必要はあると信じているし、今号がそのための一歩になればと願う。是非、賛否両論、反応をいただきたい。

(訂正)泥縄の作業であったことが露呈しつつあります。申し訳ありません。
1. 平良さんインタビュー記事 p.9
 聞き手の青井の発言:「55年に朝鮮戦争がはじまり」→ 50年 (恥)
2. レファレンスのページ。p.33
 中谷礼仁『明治・国学・建築家』(1997)→中谷礼仁国学・明治・建築家』(1993) 大変失礼いたしました。

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 やや内輪の事情だが、「建築家」像の批判的検討をやろう、ということ自体は今期編集委員長を引き受けた直後から考えていたことで、編集部では竹内さんと、(具体的な特集の企画を練るというよりも)ここ40年くらい段階的に補強されてきてしまった感の強い「建築家」のナイーブさ    こういってよければ、建築生産構造の否定しがたい変貌に適応して小さな舞台を自ら組み立て、そのやむをえない適応にむしろ居直って社会的な職能意識をどんどん手放し、小粒化してきたのではないかということ    について、かなり議論をしてきた。
 一般にはこれを「内向」的建築家像などと呼んで大きな誤りではないと思うが、この「内向」という言い方も色々誤解を生みやすい気はするので少し注釈しておきたい。第一に、わたしが「内向」というのは、建築家が、私的、個別的なもの、あるいは身体的現実感とか、局所的な文脈の特殊性、ミクロな生成要因やポリティクスなど、「私」自身を取り巻く小さな現実こそが表現を組み立てる上での重要な問題たりえるし、またそれが普遍的な問題たりえる、と信じられるような先述のメンタリティである。第二に、それゆえ、一見したところ内向的に見えず、敷地のコンテクストやら制度条件などから表現を組み立てている場合も、それが専ら建築家の表現に回収されていき、都市や社会に対するフィードバックが意図されていなければ、(どんなに一般性があるように見える理屈が語られていようとも)やはり「内向」的とみるべきだ。第三に、ミクロ-マクロ、単独性-普遍性が無媒介に照応する構図を超えるためには、社会や都市に対するジェネラルな問いを愚鈍でも立てることが必要なのだろう。そして、第四に、「私」自身を取り巻く偶有的な諸条件が表現を組み立てる根拠になるのなら、歴史への問いはまったく不要なのだが、逆にジェネラルな社会意識を持つうえでは歴史観は不可欠だろうということ。