建築雑誌2013年5月号・特集「建築評価の現在形:脱中心化・断片化・ローコンテクスト化する言説環境とそのゆくえ/Evaluating Architectural Designs: Prospects for a Decentralized, Segmented, and Low-Context Discourse Environment」

cover_201305表記の特集が出ております。特集担当は吉村靖孝さんを中心に、曽我部昌史・末廣宣子・生田京子・竹内泰の皆さん。
 特集タイトルでは「建築評価」という言葉を使いました。サブタイトル「言説環境」、前言のタイトル「建築は今どんな場所で言説化されているか」というのが特集主旨を示すのに分かりやすいかもしれません。つまり建築はつねに「言説化」を介して成立しているわけですが、言説が生産される環境が今どういう特質を持ち、それはなぜなのか、それでよいのか、どこへ行くのか、といった問いを発する特集を意図しました。40年前あるいは20年前なら「批評を問う」という言い方でよかったでしょうが、それは批評は雑誌で特定の人々によって行われるものという前提があった時代のことで、今では様々な媒体で(定期的に、だけでなく)日常的に言葉が紡がれ、誰もがそれに参加できるようになり、批評不在と言われて久しい。「評価」「言説化」「環境」といった言葉を使ったのはこういった状況と関連しています。
 この十数年の顕著な状況の変化として、もちろん雑誌(紙媒体)の衰退がありますが、必ずしも雑誌が少なくなったことが批評を衰退させているわけではないということは、巻頭の五十嵐太郎×日埜直彦対談で日埜氏が指摘しておられる通りです。これは重要な指摘ですね。もし、建築生産、そのなかでの建築設計者の位置、メディアの機能、教育のあり方、これらすべてが絡んだ歴史過程が、ある意味で必然的に批評を後退させていくような構造とプロセスを含んでいた、とみるならば、安易な因果論は有害だということに気づきます。
 たとえば、なぜ80年代には冗長ともいえる歴史的レファレンスに満ちた文化論的言説が風靡したか、そして、なぜ95年頃以降の建築的言説ではそれが消えるのか。これは60-70年代の建築生産全体の転回、あるいは明治維新にまで遡る議論になっていくでしょう。巻末対談にはこのあたりへの示唆が多く含まれます。近年の雑誌の衰退は、ネット技術が登場したから、というだけでなく、むしろ雑誌というパッケージングを支えていたような種類の言説が近年の情勢では社会的リアリティを失ったからであり、なおかつ容易に洗い流されてしまうほどに思想的にもアカデミックな意味でも知的基盤が弱くなっていたからだとも言えるのではないか。
 もうひとつ。「脱中心化」「断片化」「ローコンテクスト化」といったキーワードで把握できる建築的言説の今日的兆候は、それ自体として決して頭ごなしに否定すべきことではないし、むしろ従来は抑圧されてきたような言説のありよう、あるいは言説の連鎖による知的生産といった可能性が新たに開けてくることに期待してもよい。しかし、情報技術は道具であり、それを使って設計されたコミュニケーション・ツールも、その実際の使われ方も、やはり既存の社会構造というかコミュニケーションの特質と擦り合せられ、馴染まされていくし、馴染ませる余地がなければその社会には浸透しないはず。このプロセスが結果的にコミュニケーションのあり方を変えていくということはありうるが、現実にはそうでもないように見える。小さな微温的コミュニティの明滅的な形成にも、ドメスティックなコミュニケーションが形を変えて温存される傾向が目につくし(実は他者には入り込みづらいハイコンテクストなコミュニケーションが多い)、批判を組み立てる言葉は醸成されにくく、むしろ弱まっていく。
 この特集では、巻頭対談と巻末座談にはこうした疑問とかかわる示唆がたくさん含まれているのですが、全体を通読すると、今日的状況への批判的視座が決して広く共有されているわけではないことが分かる結果となりました。もちろん、編集サイドの戦略が十分でなかったということは重々承知しつつ、深刻な状況だなと思わざるをえません。危機感はつねに歴史意識から立ち現れて来るものだとしたら、歴史(歴史教育を含めて)の立て直しこそが重要な課題なのだということを再認識しました。