渋谷ヒカリエの SHIBUYA VISION 展について:建築家坂倉順三展2009のために作成した模型をお貸しした立場で若干の説明
展覧会「SHIBUYA VISION」をご覧になった方は多いと思います。展示協力というかたちで「明治大学建築史建築論(青井哲人)研究室」とかなり大きく入口のところに明記されていたかと思います。恥をしのんで申しますと、僕は先週初めて見に行きまして、この文字を発見してちょっと面食らいました。模型をお貸ししただけなので、あれほど大書いただくとは・・・と、恐縮した次第。あの模型は「建築家坂倉準三展」(2009)の展示物として私どもの研究室で作成したものです。当時、同展覧会実行委員会の末席に当方からお願いして加えていただき、五島慶太と坂倉準三の関係、渋谷での坂倉の仕事の都市史的な特質、戦後復興との関係、などを短時間でしたが当時の学生たちとそれなりに研究した上で、近代日本の都市開発史のなかでの渋谷の位置と建築家の役割を考えて、あの模型をつくったり、図録の解説を執筆したり、ダイアグラム的な図を作成したりしました。
端的にいうと、坂倉の渋谷は、丹下スクール的なヒロイックなアーバニズムの構想とはまったく異質な、実際の土地・建物所有やサーキュレーション等の条件のなかで、ひとつひとつ建物を実現して連鎖的・段階的につなぐことで、駅近傍の空間と人の流れを組織しなおした、そういう仕事なのです。それは渋谷の都市構造を鮮やかに刷新したわけではないし、ほとんど東急電鉄(五島慶太)に与えられた仕事をこなしただけとも言えるのですが、それでもある種のアーバニズムのありようをそこに読み込むことは許されるでしょう。たとえば最初の仕事「東急会館」(1954)は実は1930年代に3層目まで建設されたまま戦後を迎えた「玉電ビル」を垂直に増築する仕事であり、それゆえにPC版による軽量化に取り組んだり、また国鉄改札を組み込むために平面計画を再編集していたりと、実際的な諸条件との格闘の痕跡がけっこう残されています。他にも各所に読み取れるそうした継ぎ接ぎが、渋谷をつくってきた。坂倉が関わった難波なんかも同じ意味でとても興味深いですし、ヒロイックな造形で知られる新宿西口広場ですら実は、全体が地下に埋設され、最上階に例の車路をとりつけた、ひとつの建築物(駐車場ビル)であって、周辺の諸条件や権利関係の縫い合わせが設計の中心的課題であったはずです。同じ新宿の小田急ビルと地下鉄ビルの関係なども、ほとんどヴェンチューリの多様性と対立性の議論を地でいくようなファサードの処理が施されている。丹下スクールのように、万博やニュータウンの白いキャンバスではなく、あくまでも民間資本とその活動拠点である都心の複雑な条件とともかくもストラグルしたのがこの時期ほとんど坂倉準三くらいものであったことはあらためて丁寧に位置づけるべきことだろうと思います(他方には、まったく理念もコンテクストも違いますが、RIAによる地方都市中心部の仕事群があることも重要なので付記しておきます)。
今回、ヒカリエの展覧会では「渋谷再開発計画1966」の図面が大きくプリントされて展示されていましたが、あれもそうした連接的な発想の延長上にあったでしょう。もっともあの計画は地元商店会による協議会(最大の会員は東急電鉄・東急不動産だったでしょう)が、立案グループ(坂倉準三を顧問格の代表に据え、坂倉事務所の数名、東大丹下研の曽根幸一といった人々、さらにパンデコンという東大高山研・丹下研出身者その他で構成されたコンサルが入っていた)を組織させて描かせたもので、坂倉自身の作品というような性質のものとは全く違っていたと考えられます。しかし、ともかくその特徴は、渋谷駅+東急の建物からなる継ぎ接ぎの流体を、さらにペデストリアン・デッキの網目状ネットワークで街へ展開させるというもので、渋谷の地形に対して膨大な群衆の流れをアジャストしつつ分配していくこと、あるいは民有地の内部に公共的な歩行空間を埋め込んで土地利用を半共同化していくこと、といったそれなりのアイディアがこめられた提案ではあったと思います。
あの模型では、以上を踏まえて、坂倉設計の建物群を白いマットな立体で、また実現しなかった「1966」の構想を赤い半透明のアクリル板で再現し、それらが未だ低層建物の海であった渋谷にそれなりに丁寧な手付きで重ねられようとしたことを表現しました。
以前、「渋谷学」という国学院大学の研究会でこのあたりのお話をさせていただく機会がありました。渋谷の戦後開発は、まずその時期がきわめて早く、先行するモデルが東京になかったこと、東急がまとまった土地を駅近傍に点在させて所有していたこと、戦後復興区画整理で戦後の露店やバラック飲屋街を移転させていくプロセスを追いかけるように建築計画だけで駅+近傍を創出していったこと等に特徴があります。もちろん、あのスリバチ状の地形と、戦前までの小さな粒の集積による都市形成が新宿や池袋に先んじてあったことも、先行条件として重要でしょう。こういった諸条件が、渋谷を今でも比較的小粒のスケール感と高い密度感をもった町並みにしているわけです。研究会に参加しておられた地元の方々も、それを一掃する再開発が進められていることを危惧しておられました。
SHIBUYA VISION 展の後半にあった、現在推し進められている渋谷再開発のパースの類を皆さんご覧になったと思います。1950-60年代の渋谷計画を「継承」する、という意味の表現が散見されましたが、あの計画は、かつての渋谷計画とはまるでかけ離れたものです。もっとも、こうした再開発は渋谷にとっては宿願でした。地元や行政が坂倉らの「1966」では飽きたらなかったのか、1971年代には(経緯不明ですが)内井昭蔵が依頼を受けて、駅周辺全体を人工地盤で埋めた上に超高層を林立させる絵を描いたことが新聞記事に出ています。これも構想ではありますが、二つの絵を比べると、ここでも60年代と70年代には大きな断層があると思わざるをえません。しかも、現在の再開発計画では、71年の構想にはなかった奇妙に明るい商業主義が前面に出て、どうにも脈絡や纏まりの感じられない風景が描かれています。そこには建築設計・生産の今日的なありようも関わっています。それこそ(昨日のエントリで書いた)多木浩二の問いや、また神代雄一郎のかつての問いが想起されます。もちろんこういう補助線も安易に書き付けるべきことではないでしょう。計画の実態についても丁寧な跡づけが必要なことは論を俟ちませんが、ひとまず乱暴な素描をお許し下さい。
あらためて恥をしのんで申しますが、以上はあの(いくぶん無防備に置かれた)模型について、制作者が何を考えてあれをつくったかを説明するために書きました。これから展示をご覧になる方、あるいはすでにご覧になった方も、こうした戦後の渋谷開発史と今日の再開発を考えおなす契機にしていただければ模型制作者としてありがたく思います。