旧ブログ復刻:2007年1月31日「モノが残ること、モノを残すこと・・・広島にて。」

失われた人間環境大学勤務時代(2002年4月-2008年3月)のブログ「semi@aoao」からの救出記事(2007年1月31日付)。僕にとってはけっこう印象深い出来事です、これ。関連して、『建築雑誌』2012年8月号特集「広島[ヒロシマ]・長崎[ナガサキ]」(編集担当=砂本文彦・初田香成)は等身大の広島・長崎、およびこれら両都市の再生に携わった人々の証言が盛り込まれたいい特集ですので是非ご一読ください。

昨日(1月30日)、ある仕事で広島に来ていたのだが、思いがけず時間ができ、街を歩いた。

市が無償貸与をうけたという旧・日銀広島支店は、いわゆる「被爆建物」のひとつだ。ここでも多くの人々が亡くなった。

正面玄関にはただ「公開時間は5時まで」とあるだけで、中は薄暗い。躊躇しながらしのび込むと、驚いたことに、ただのがらんどうだった。何もない建物のなかを、ほとんど自由に歩き回ってよいのだということが次第に分かる。何か具体的な活用法が決まる前の過渡的な状態なのかもしれないが、主を失って投げ出されたかのようなそのがらんどうの状態そのものが何かを教えているように思えた。その答えは、2Fで見たヴィデオの中にあった(デッキが置いてあって、自分で操作するようになっている)。

ここの警備員をつとめる男性がそのドキュメンタリー(NHK制作)の主人公だった。男性は警備員なのだが、この建物に通うようになった被爆者や遺族の問いかけに答えるために休みの日には原爆をめぐる無数の記録を渉猟している。彼は人々の失われた過去を再構成する歴史家になりつつあり、その営みが人の縁をつなげていく。ヴィデオのなかの彼は、しかし、この建物が人々を引き寄せるのだと言った。資料館やらカフェやらにキレイにコンバージョンしないことも、時には有力な選択肢なのだということが切実に感じられた。この日、残念ながら彼は非番のようだった。

すぐ近くの袋町小学校には、平和資料館と称する小さな建物があった。フラフラ彷徨い込むと、外見からは分かりにくいのだが、被爆した鉄筋コンクリート造の西校舎(1937年竣工)を、玄関・階段室・教室を含むように4スパン分だけ切り取って保存したものだった。

ここにも語り部がいた。自らも被爆者だという男性だった。

その日、8時15分に校舎をおそった爆風と熱線はコンクリート驅体以外のすべてを吹き飛ばし、床板や階段などの木部を一瞬にして燃やし、そのススで内部の壁は真っ黒になった。木材と同じように跡形もなく消え去ったこどもたちもいた。2日後に校舎を訪れたある教師が、その真っ黒なコンクリートの壁に、白いチョークで覚え書きを記しはじめる。やがて、児童の親たちがここを訪ねては、こどもの消息や、その手掛かりを求めるメモを書き、文字は壁という壁に連なっていった。どの文字にも記した人の名前と日付があった。

1947年、昭和天皇を迎えるために壁はほとんど漆喰で塗り込められた。しかし、白い文字の這う黒い壁は、何枚かの写真におさめられていた。また、後で取り付けた黒板の裏からは、塗り込めを免れた覚え書きの数々が現れた。この壁は保存部分以外の教室から見つかったので、その壁自体を切り取って残してある。

他の箇所でも漆喰の一部を剥いでみると、奇妙なことに白黒反転した文字が現れた。理由は簡単である。漆喰が「地」としてのススを吸着して取り去り、文字=「図」のところでは逆に白いチョークを取り去ったために、今度はススが「図」となって浮かび上がったのである。そうして、建物は、あちこち試みに漆喰を剥いだ箇所を露呈したまま公開されている。

この建物は、モノがなぜ残るのか、また残ることに伴ってどのような変化が必要なのかを、ほとんど余すところなく伝えているように思われた。男性と建物にていねいに御礼を言って別れた。

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(袋町小学校平和資料館。あちこちの漆喰壁が剥がされている。黒地に白い文字の部分は、残された写真を拡大したもの。)

(20070201付記:帰宅して、山下和也・井手三千男・叶真幹『ヒロシマをさがそう − 原爆を見た建物』(西田書店、2006)をチェックした。旧・袋町国民学校広島市営繕課設計。チョークの「伝言板」も簡潔に紹介されている。旧日銀広島支店は、1936年竣工。設計者は銀行建築の名手・長野宇平治。)

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(写真追加。旧日銀広島支店。四本の独立柱にあったコリント式の柱頭は、復興の際に省略されている。)