落ち着きませんね。
春休みだというのに相変わらず何だか追い回されるような日々。だいたい春は落ち着かないから好きじゃないが、今年は例外的にせわしない。結局やりたいことがあればやるしかないし、成り行きでも覚悟を決めたならウンウン唸ってでも面白いことに変えるしかない。それでも、ようやく山麓に差し掛かって、さてどこを登ろうかと思案しているとき後ろから追い立てる声なぞ聞こえでもすれば、今回は低い鞍部を行かせてもらおうかなと怖じ気づく時もあり、それで許してもらえそうな理由なぞ捜しはじめた瞬間にすでに色々なものを失っているのだろう。そんなとき、“忙しいと保守化する”・・などと敬愛する強面の恩師やら先輩やらにチクッと指摘されたりすればヒリヒリと身に染むもの。ときどき両の足を見下ろして、アスファルトにうつるソイツの影に気づいたら、お前の居ることなぞこっちはとうの昔に承知の助と、何喰わぬ顔で跨いでゆきたいものだ。
先週43歳になった。研究室(学生たちの部屋)で作業してたらA君がビデオカメラを廻しはじめて部屋の照明を落としたので、アイツ何やってんだと思ったら、ドアからケーキを手にしたKさんが入ってきた。感激した。ありがとう。家でも家族に祝ってもらった。謝謝。
最近格闘しているお二人を不遜にも(いや自意識過剰なだけか)引き合いに出させていただくと、堀口捨巳の43歳は1938年だが、その頃の堀口は紫烟荘にはじまる模索にほぼ決着をつけた頃で、同時に茶室の調査研究に精を出していた。孤篷庵の忘筌やら山雲床やらの庭石をせっせと擦っては拓本を採っていたのもだいたいその頃らしい。神代雄一郎の43歳は1965年。近代建築の同時代的状況に失望してこの年にアメリカへ旅立ち、帰国後まもなくデザインサーヴェイをはじめた。もうひとり、布野修司(師匠)に初めて出会ったのは1992年で、たぶん彼が43歳の年だと思う。
堀口は状況に振り回されないだけの堅固な足場を築きつつあり、神代は苛立ちを隠さず新たな立脚点を模索し、布野は眼をギラギラさせ、学生たちと、いや誰とでもやたら激烈に酒を飲んだ。さてと。