都市と都市/復元思想の社会史

 最近どうも身体がフラッとしたり、逆にすごく重かったりで、地面を歩く感覚がヘンです。疲労でしょうね。それと建築の本を読む気力がめっきり減退してしまって、SF的な小説ばかり読んでる。これが妙に自分の身体感覚と合ってしまって抜け出せない。まずいなー。『建築雑誌』でディープに建築漬けだから、まあいいのかな。
 最近読んで面白かったのはチャイナ・ミエヴィル著・日暮雅通訳『都市と都市』(ハヤカワ文庫SF、2011)(China Mieville, "The City and the City")。有名なんで解説不要と思うけど、入り組んだ国境で接し合う二つの都市国家が主語、いやその間に潜むもうひとつの何ものか(=不在)こそがほんとうの主語であるという不思議なセッティング。でもプロットはハードボイルド・サスペンスで、ジャンル的な安定感があるので大部ながら一気に読める。最近はC・ミエヴィルとP・ディックを数冊読んだ。短編・長編いろいろ。やっぱり主語が都市(というシステムとか無意識を司る何ものか)なんだな、ほとんどの話が。何だかんだいっても僕はそういうふうに読んでしまう、ということもあるのだろうけど。
 建築本では、研究室の今年のサブゼミの課題図書(のひとつ)にした鈴木博之編著『復元思想の社会史』(建築資料研究社、2006)。いい本です。修理、修復、復元、復原、うつし、模型、(あるいは破壊すらも)・・・とタームが色々出て来るが、どれも時間的・空間的な変化のなかでの「同一性の確保」の問題であり、その回路をヒトあるいは日本人がたくさん開発してきたことをあらためて教えてくれる。これらタームは互いに視点をズラしたり読み替えたりすれば他をカバーしてしまいそうなほど近接しあっているが、それでも差異の見極めが可能。そのうえであらためてスゲーと思うのは伊勢の式年造替というシステム。これは上記のタームのどれでも包含しうるヤバい代物だ。たとえば神を遷す前の竣工したての社殿は、意味が「空」であるような原寸大の「模型」というべきだろう。その「模型」がオリジナルの座を上書きし、原型と派生物とを交互に入れ替えていくのが式年遷宮だ。「復元」というタームは失われたものを再現することだが、伊勢の場合、現存社殿を取り壊すことをあらかじめ定めたうえで新社殿をつくるという意味では、喪失を予定した「先取的復元」。「復原」が、オリジナルからの変形・逸脱を原型に戻すことだとすれば、朽ちていく社殿(古い本で読んだ記憶があるんだけど、伊勢の茅葺き屋根にはムササビの巣ができたりするんだって)をその隣で復原するという「代替的復原」といえる・・・なーんて色々頭がぐるぐる回転していく。同一性確保にかかるあらゆる回路を自律的な閉じたシステムへと畳み込んだ、超時間的なマトリクスみたいなもんだね、イセは。