長崎、差異を生きる都市。

 建築雑誌の取材のため広島と長崎に行ってきた。長崎は過去3度訪ねたことがあり、華人街、出島、社寺、グラバー園異人館の町並み、現代建築、・・・それに平戸も佐世保ハウステンボスも見ているが、ヤミ市を引き継ぐ市場を歩いた以外では、戦争・原爆について学ぶのはほとんど初めての機会だった。昨日は長崎市公会堂の近くで齢90のある重要人物にお話をうかがったのだが、内容は8月号特集を楽しみにお待ちいただきたい。
 ひしひしと感じたのは、同じ被爆都市でも、広島と長崎とでは背景や受容がこれほどまでに異なるものかということである。いかんせん付け焼き刃で誤りもあるだろうし、短絡的な点もあると思うが、以下に考えたことを書き付けておきたい。

 たとえば近世の広島と長崎はどうだったか。いずれも人口は7万人程度だから、あの小さな長崎の経済的繁栄にあらためて驚かされるのだが、とにかく両者とも、三都(江戸・京都・大阪)および名古屋・金沢につぐ大都市であった。ただ、その内実(統治構造・社会構造)がまったく異質だったことをあらためて考え直さなければならないようだ。広島は、広闊な扇状地に展開する屈指の城下町であり、領主の下に一定の自律性をもって経営される大都市であった。他方の長崎は、日本唯一の国際貿易港を擁し、天領(幕府直轄領)とされるも、襞の多い複雑な地形と多様な社会集団を背景にもつモザイク都市だったといえるかもしれない。
R0033735 近世長崎の主役は長崎商人であろうが、華人が実に1万人、出島にはオランダ人をはじめとする少数の外国人がおり、また浦々や島々には漁村があるが、そこへ逃れて寄留した相当数のキリシタン(彼らに漁業権はない)がいた(明治以降に顕在化する)のだから、これだけ考えても長崎の独特な雰囲気が想像される。近代には軍港と軍需産業(三菱)がさらに多様な人々を集めたが、浦上(うらかみ)のあたりに注目すると、そこにはキリシタンが集住して差別を受け、また中国人・朝鮮人らを多く収用する刑務所があり、さらに、近世に(キリシタン監視のために)他所から移住させられた非差別民の集落もあったという。(半ば偶然のことであるが)原爆はこの、(長崎商人の本拠地である都市中心部から北へ2Kmほど離れた)浦上という「周縁」の地に落とされたのである。原爆はさらに、被爆者とそうでない者を分ける線を、ただでさえ複雑な社会の上に上書きすることになった。
 ゆえに長崎においては、鋭い矛盾や葛藤を「正義」の名のもとに政治的に統合するのではなく、どんな出来事も差異も受け容れながら、解消できぬ矛盾をいかに生きるべきかを問い続けられるような原理こそが求められてきた。生き続ける、考え続けるといっても判断が迫られる局面はある。そのとき、この原理を保持するためには、差異を消そうとする力、統合しがたいものを切り捨てる力、に抵抗することこそが適切な選択となろう。キリスト教カトリック)は、長崎においてはそのような原理だったのではないかと思う。
 この原理の具体的な表象(代理)ともいうべき人物に、かの永井隆(医学博士・作家)がいる。彼の短い人生を永井隆記念館に訪ねた後に帰京したが、そこにはきわめて具体的な、また歴史的な、カトリックとの生々しい関係が刻み込まれていた。

永井隆 年譜抜粋】      20120503 Thu. 永井隆記念館にてノート(+若干の補足)

1908.0203 島根県松江市に生まれる。
1928.04 松江中学を卒業後、長崎医大に入学。
1931 浦上の森山家に下宿。森山家は近世より代々キリシタンの信徒頭=「帳方」の家系で、当時は家畜仲買を営んでいた。この森山家の1人娘・緑(みどり)に出会い、彼女にキリスト教の書物をもらったことが、改宗のきっかけとなる
1933.0201 満州事変に出征。
1934.0201 帰還。長崎医大に戻り研究室助手となる。
1934.06 洗礼を受く。洗礼名パウロ。信徒組織・聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会に所属。この会は長崎港外の島々や海岸のキリシタン集落を巡回して診療、童話・劇、衣類配布などの活動をしていた。巡回先の集落は彼らの先祖が迫害され集団潜伏していたところで、貧しく、交通悪く、医者もいなかった
1934.08 緑と結婚。
1945.06 長年の放射線研究による被爆白血病の診断。
1945.0809 長崎に原爆投下。爆心地より700mの位置で被爆。重傷を負うも市民の救護活動に奔走。
1945.0811 2日ぶりに自宅に帰り、緑の遺骨を発見し埋葬。
1948.03 「如己堂」を建てて居とする(浦上)。2帖とわずかの木造の庵で、カトリック大工組合、教会仲間、近隣者の好意による建築。「如己」は「己の如く人を愛せよ」から
1951.0501 長崎医科大に緊急入院。逝去(享年43才)。

 ところで、メモリアルや遺物保存、出来事を核とするアーバンデザインは、このような原理とはたいてい対立するものかもしれない。とすれば、広島と丹下健三は・・・。

※写真は浦上天主堂被爆遺物。