2006年4月火災の彰化元清観、修復工事成る。

YuanCinGuan_wall+plan拙著『彰化一九〇六年〜市区改正が都市を動かす』(アセテート、2006)の口絵に「元清観」という廟を都市の「トラウマ」の例として紹介した。植民地末期(1940年前後)の市区改正道路の建設により南西側が薄く斜めにスライスされてしまったのである。先行する肉片のような都市組織に、市区改正計画という金網を炙って押しあてるとジュッと音を立てて焦げ付く。こうして都市は二つの異質な形態の重合というべき状態になるのだが、元清観の壁面は、その両者の境界面の一部なのである。

元清観の建築は、文化財であるから今後も原則的に改築されることはない。しかも、失われた部分は道路用地となっているために、欠損を回復する復元事業もすでに不可能である。この建築は、理不尽にも美しい切断面を保存しつづけるほかないことを条件づけられているのだ。そこに、元清観が今後も持ち続ける独自の意義があるだろう。(『彰化一九〇六』p.23)

で、この元清観で2006年4月9日に出火し、本殿がほぼ全焼、これに接続する側廊その他に大きな被害を出した。出版前だったので、このことに関する僕なりのノートを注として追加してもらった。

国家二級古蹟であるから実測図面・写真等に基づいて再建・修復が行われることになるが、本書に述べたように、焼失した本殿周辺はちょうど市区改正道路による切断面を露呈していた箇所であり、このことが修復にあたっての設計方針に微妙な影を落とすことは必至であろう。被害のない(あるいは小さな)建築物までも含めてすべてを取り壊すという(おそらくありえない)決断が下されないかぎり、中軸線に沿う建築的構成の特質上、在来都市の形態と市区改正との齟齬がすっかり解消されてしまうことはありえないからである。すなわち、市区改正による切断部分がいったんは取り壊されても、残された他の部分に、間接的に都市形態の二重性が保存され、焼失部分を再現する際の設計条件の一部を構成するのである。二重化の徴は容易には消えない。(『彰化一九〇六』p.23-24)

本日(20111227)元清観を訪ねた。一部の彩絵を残すのみでほぼ修復が完成していた。現場に行く前に彰化縣文化局の副局長さん(知り合った頃はまだ課長さんだった)を訪ねてお話をうかがったが、やはり市区改正による切除という履歴は修復方針の検討に影響を与え、切除部分もこの際あわせて復原できないかという意見が複数あったという。結果的にはこの意見は容れられず、火災直前の姿に戻すことが基本方針とされた。つまり、都市形態の二重性は基本的な設計条件として修復の基盤に潜在しつづけることになった。
下の写真は復原された切除部分。内部では斗栱や梁が壁にだんだん埋まっていく様子、外部ではその反対側の先端が壁から飛び出している様子が分かるだろうか。これらはすべて新しい。「スライス+パッチ」(無頓着な暴力による破壊と、アドホックな継当てのような応急処置)という偶然の産物を、文化資産保護法による修復事業によって再現するという、捩じれてはいるが合理的な判断が下されたのである。
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壁からいきなり顔を出す斗栱。
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梁が埋まっていく。
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復原された切除部分。
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正面(三川殿)。写真の左側(南側)がスライスされた。
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火災を免れた後殿。