二つの「自然」〜農学系造園と林学系造園

先週末、10/22(土)に明治神宮外苑聖徳記念絵画館にて、下記の研究会(第9回国際神道文化研究会=第7回神社と公共空間研究会)が行われ、私はコメンテーターの1人として参加させていただいた。

研究会テーマ:明治神宮の造営前史と隣接空間
日時:平成23年10月22日(土)13:30-17:00
会場:明治神宮外苑 聖徳記念絵画館内会議室
プログラム:
 発題「日本大博覧会と明治神宮」長谷川香(東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程1年)
   「新宿御苑の造営と福羽逸人の皇室庭園構想」本荘暁子(財団法人国民公園協会新宿御苑広報案内担当)
 コメント 青井哲人明治大学理工学部准教授)
      畔上直樹(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)
 司会   藤田大誠(國學院大学人間開発学部准教授)
 全体進行 今泉宜子明治神宮国際神道文化研究所主任研究員)

 明治神宮「内苑」のランドスケープは、その大部分が照葉樹林である。それは森それ自身の生命(サイクリックな自己再生産)によってその林相の平衡を保ちうるような、生態学のいう極相林であり、都市化のなかで唯一可能な選択肢として林学者たちによって差し出されたものであったが、まもなく、気候帯に対して最も「自然」に、動的に定着しうる、太古の森とも変わることのない、本来の意味での日本的・神社的な「自然」なのだと転倒されることで、強力なイデオロギーとして日本(あるいは帝国)全土の神社に波及していった。建物(社殿)は深い森に抱かれ、突出せず、祭儀を円滑にアフォードすればよい。
 一方、「外苑」のランドスケープは、長谷川さんが指摘するように吉武東里が設計した大日本博覧会の青山会場計画案(実現せず)とよく似ており、あるいは本荘さんが紹介した新宿御苑のフランス幾何学式庭園の部分(宮殿の建物以外は実現・現存)とも似た、つまりは20世紀前半までの西洋風の公園や庭園を支配したバロック的なプランを示している。この系譜は農学系造園のもので、モニュメント的建築物や並木道等のアーバンデザインとの親和性が高く、日本都市の大部分の近代的パブリクスペースをつくった。図案家としての吉武東里が大博会場に見事な案を提示できたのは、それがいわば平坦な土地における平面的な「図案」としての性質を色濃く有するからだろう。
 これらが内・外苑に振り分けられたことは、二つの「自然」、二つの「公共性」、二つの「学知・職能」が分節されつつペアリングされたことを意味する。林学系の森も、造園系の庭も、いずれも人が捉え直した自然であることは注意すべきで、つまり「自然」への人の構え方が極端に異なるのである。神社の「神社性」といったものが昔から変わらぬと考えるのは非歴史的で、明治神宮を契機に、都市化・大衆化のなかでそれをあらためて定義しようとする試行錯誤がなされたとみるべきだが、その際、かなりの程度まで、林学者たちの生態学イデオロギーとそれによって実際に現出した深く暗い森のイメージが大きな規定力を持ったことは間違いないだろう。それが内苑を決定し、そこに収容できない体育施設や美術館をもつ公園機能が外苑に配分された。そのとき同時につくり出された「公共性」の分節をどのように語っていくかがこれからの課題のひとつだ。
 われわれ明治神宮史研究会はいずれかといえば林学系の「自然」が1920年代に登場してくるプロセスの方に関心を集中させてきたが、外苑と御苑の農学系ランドスケープにフォーカスが当てられたことで、両者の全体(分節のありよう)を見ることの重要性が浮かび上がる研究会だった。畔上氏のコメントが見事にこの構図を描いたと思う。
 この構図を前提にしたうえで、戦後の公共空間の変遷を考え直すこともまた意義深い課題になろう。たとえば私は、1940年代前半に若き丹下健三が、当時唯一建設ラッシュであった神社や、皇居の内外苑などにおける「自然」と「公共性」の構図に無関心であったとはとても思えない。彼が一等をとった「大東亜建設記念営造計画」コンペ案(1942)はまさに神社的な環境構成をなぞった忠霊施設だったし、戦後の広島平和記念公園(1954)はその延長上に計画されたアーバンデザインだった。いずれも群衆を集める崇高な公共空間である。乱暴な連想ゲームにすぎないが、ル・コルビュジエもまたバロック的な図案的デザインから逃れて自然な森のランドスケープと近代建築をマッチングさせている。丹下はル・コルビュジエ的な森と神社的な森の両方をみていただろう。彼は日本的モダニズムの路線を探求するなかで、強力な「自然」観こそがそれを下支えするだろうと直観していたに違いない。ついでに前川國男らの戦後の公共建築のランドスケープも思い出そう。こんもりとした照葉樹の森ではないか。おそらく、農学系の造園が林学系の森を取り込むことで、戦後モダニズムランドスケープが確立するのではないだろうか。では、バロック的・図案的なランドスケープはどうなったかといえば、道路の断面設計などには脈々と残され、またピーター・ウォーカー以後はそれをモダンな手付きで回復したのではないだろうか。以上、後半は妄想でした。