日本建築学会大会が終わりました。

2011年度大会(関東)早稲田大学キャンパスで行われ、閉会式でのアナウンスによれば過去最高の12,000人の来場者(概数速報)を得たそうです。わたしが参加・拝聴した催し等は下記のとおり。

第1日(8月23日)
  -開会式
  -PD(建築文化事業委員会)「街を歩くことから始まる建築・都市の読み解きと未来への構想」
  -PD(建築歴史・意匠)「アジアの建築風土と日本の貢献 ― アジアを学ぶ・アジアから学ふ」
  -懇親会
第2日(8月24日)
  -研懇(農村計画)「漁村集落再生のシナリオ ― 東日本大震災からの復興」
  -PD(木質構造)「「木造禁止」を再考する」
  -歴史意匠 懇親会
第3日(8月25日)
  -総合研究協議会(2)「東日本大震災 ― 2.復興に向けての提案」
  -閉会式

あと隙間をねらって建築雑誌編集の打合せもしました。24日の夕方に3月号素案(牧先生・寺川先生と)、25日の昼に1月号詰め(大沼先生と)。そして明日は第3回編集委員会です。ふへー。

感想は下記。とても全部は書けないのでとくに印象に残ったことだけ書きます。


1) 「漁村集落再生のシナリオ」・・・株式会社漁村計画の富田氏、綾里漁業協同組合小石浜青年部の佐々木氏、岩手県農林水産部漁港漁村課総括課長の大村氏といった方々のお話で、三陸漁業と集落・都市社会の特質がとてもよく分かった。たとえば漁家が海岸近くに家を構えなければならない最大の理由は資産や権利の問題であることを知った。たんなる利便性や文化の問題として説明するよりはるかに説得力がある。集落を空間や文化で語ってきた私たちは反省した方がよい。ディスカッションでは重村力先生が目を閉じ眉間に皺を寄せ、いつも「ホントに議論すべきポイントはそこじゃない」というような苛立ちと自問の表情(わたしの想像です)を浮かべながら頑張っておられたのが印象的だった。津波挙動のシミュレーションに関する土木分野の越村俊一氏(東北大・災害制御研究センター)のお話は、建築とは異なる立場を明瞭に示しつつも、建築・まちづくり分野とも対話できる視野の広さと思考の柔軟性を示しておられた。たとえばリジリエンスについての会場からの質問に、被災と再生を繰り返してきた三陸海岸地域は元来とてもリジリエントだったと思いますよと軽妙に答えを返されたのには感心した。また、建築サイドは何となく「防波堤・防潮堤・港湾施設などの土木構造物は科学的かつ政策的に決定してもらえるから、集落計画はそれらを前提にして考えればよい」というように思いがちだが、そういう階層的順序関係は前提にならない。むしろ集落計画的な制約が土木構築物のありようを規定することだってありうるからだ。問題は複合的である(でも無限じゃない)。それにしても、何度も何度も津波に襲われながら再生してきたこの地域が、いま国家予算なしには身動きもとれないほどガチガチに固められている姿をどう見るべきか。


2) 「「木造禁止」を再考する」・・・1959年学会大会の2日目昼に500名の参加者により決議されたという、いわゆる「木造禁止決議」を歴史的に再考するたいへん興味深いシンポジウム。昨年、漫画「おいしんぼ」で同決議がとりあげられ、学会がウェブサイト上で説明を掲載したことは記憶に新しい。私が非常に感銘を受けたのは司会の大橋好光氏の一連の発言。氏は、同決議が少なくとも公共建築など住宅以外の建築種別から木造を閉め出し、かつ木造の学術的研究を著しく停滞させる原因のひとつになったと冷静に指摘し、また昨年の騒動?に対する学会の説明文にも疑問符をつける(木質構造委員会は何も知らされていなかったという)。第一に、学会説明は1959決議が防火・耐風水害の観点から「危険の著しい地域に限定して」木造禁止を言ったものだと述べるが、決議文はやはり一般的に木造禁止をうたったものと読めること。第二に、学会説明は学会が一貫して「木造建築に関する適正な技術の普及を奨励していた」と述べるが、むしろ学会が戦後長期にわたり木造を軽視してきたことは明らかなこと。つまり同決議の歴史的把握・整理の不十分なまま拙速に出された多分に政治的な釈明の感があり、かつそれは重要な構造的因果関係を隠蔽する効果を持ちうることが指摘されたといえるだろう。
 パネリストの先生方のお話はいずれも興味深く拝聴したが、何といっても史的構造を力強くつかみ出す内田祥哉先生のご報告には唸った。まず1945年の焦土を前に、多くの人が同じ場所に二度と木造を建ててはならないという切迫した思いを持ったし、また建築家はRCをやりたいと切実に願ったが、圧倒的な住宅不足・施設需要の前に、唯一利用可能であった国産木材による建築の時代があった。これが1945〜49年で、木造はやりたくてやったのではない、一種の代用であった。1949〜59年は一転してRC台頭の時代で、この時期に日本は世界史的にみても特異な現場打ちRCの建築物を大量につくった。これを支えたのは熟練した大工技術を背景にもつ型枠工たちと、国産木材の極端な大量消費であり、建築関係者は型枠用の国産材の枯渇を本気で懸念した。ここに外材の輸入がはじまり、まもなく合板の輸入へと切り替わり、それを土台として米国業界はツーバイ材の日本への輸出を進め、あわせて木材に関する関税撤廃などの動きもつくり出した。木造建築の着工数は、公共建築では1950年代以降ほぼゼロになるものの、郊外・農山漁村の独立住宅需要の伸びに支えられて一貫して増大していたが、そこにも外材・ツーバイ材が侵入して国産材は閉め出される。重要なのは50年代の現場打ちRC造がある意味で「木造建築」だったということ。実際、型枠を実寸の木造モックアップと考えれば大変な技術と量の世界を想像しなければならないし、内田先生によればその合理化が材木と木造の世界を構造的につくりかえてしまったということになろう。そういう大きな構造的転換のなかに「決議」を置いて読み直す必要がある。こんなことを飄々と語ってしまう御老体、恐るべし。


3) 「東日本大震災 ― 2.復興に向けての提案」・・これについてはたいへん重大な発言がいろいろあったが、たぶん活字にされそうにないので是非書かねばと思うのだが・・・迷うなあ。