デザイナーとの打合せ/都市計画遺産研究会

2011.07.22 大学に寄ってから田町へ。会誌『建築雑誌』後半モノクロページのウェブ移行につき事務局と打合せ。つづいて2012年1月号よりデザイナーをお願いする中野豪雄氏と制作をお願いするメディアデザイン研究所のKさんと打合せ。中野さんは勝井デザイン事務所出身の注目の若手。編集のイメージや業務内容などお伝えして意見交換した。是非縦横に活躍いただきたい。


その後、大岡山(東工大)に移動して都市計画遺産研究会の会合に出席。同研究会が国交省の関係で復興計画史調査(岩手・宮城の1896, 1933, 1960津波被害時の復興計画をまとめる作業)をはじめておられるということで、当方の研究室で作成した「三陸海岸の集落 災害と再生:1896, 1933, 1960」についての紹介を依頼されゲスト参加。まず同サイド作成チームのまとめ役・石榑君(D1)がサイトの主旨や構成について説明したのち、自身の岩手調査の経験も踏まえていくつかの集落を事例に津波被害と集落移動の履歴をわかりやすく解説し、鍵になりそうな論点を示す。僕からは山口弥一郎の調査研究についていくつかポイントを紹介。さまざまな意見交換がなされた。1933昭和三陸津波内務省主導の復興計画がなされ、その報告書(1934)が重要資料なのだが、理念・目的、計画体制、実行体制、実現過程(実現の有無や修正も含む)、技術的側面などよく分からないことが多い。集落の実態については弥一郎調査がどうやら無二の記録であるということが都市計画史畑の専門家の皆さんのあいだでも認められてきているようだ。一方で重要なのは1960年以降の三陸都市・漁村の産業と社会と空間の変容過程で、とくに防潮堤主義の波及と漁港整備などの実態を知りたい。そうしたプロセスが堆積したところの、被災直前の三陸地域の実像が分からないと3.11の理解が進まない。たぶん、昭和三陸までは(たとえ近代都市計画確立後の内務省主導の復興がなされたとはいえ)産業・社会、家屋構造、人々の広い意味での知識(災害観)のありようなどが、近世までの反復的経験とそれなりに連続していたと思われるのだが、戦後(とくに1970あるいは80年代)の変容はきわめてドラスティックであったろう。