大江新太郎の流れを汲む

 2011.07.23 Sat. 理科大の田中傑氏と2人で町田へ。1917(大正6)年生まれ(現在94才)、戦中期の内務省神社局に奉職し、戦後も神社造営の中枢にいたK氏にインタビューさせていただいた。吉野は上市出身のK氏は、小学生の頃、おがくずの山で遊ぶのが楽しいからと吉野神宮改築(1927年上棟・1928年竣工)の現場に入り込んでいたところ、たぶん入省7〜8年目、40才前後の角南隆(1887-1980)に出会い、おまえ筋がよさそうだからトレースをしてみろと言われ、(遊びで)図面を写したりしていたという。目が点になりそうなエピソードだが、こういうことがあって吉野高等工業学校で建築を学び、東京の稲垣建築事務所に奉職したのち、角南の指示で橿原神宮改築に従事することとなり、入省して角南門下に入った。以下、インタビューの内容というより、お話をうかがった後に少し考えてみたことを書いてみる。
 明治神宮造営工事(1915-20)では、伊東忠太+安藤時蔵の体制で社殿設計が進んだものの、急逝した主任技師安藤のあとを大江新太郎が引き継いだ。その大江は、明治神宮では宝物殿のコンペにも勝っているが、同時に伊勢式年遷宮(-1929)の指揮をとり、以前から日光東照宮修理の責任者であり、また1922年頃からは湊川神社の境内整備や社殿改築にもかかわるなど、明らかにポスト伊東忠太体制の中心人物と見えていただろう。しかしながら大江は1935年に夭逝してしまう。
 大江より8才ほど下の角南は、明治神宮では外苑の仕事をしたが、明治神宮が終わる前、1919年に内務省神社局としては初めて兼務ではない専任の技師に抜擢されている。その辺は誰が差配したのか、やはり佐野利器かと想像するが分からない。いずれにせよ角南の本格的なデビュー作が冒頭にあげた吉野神宮だが、以後、室戸台風(1934)による西日本の官国幣社社殿の復旧工事急増をきっかけとして神社局造営課は肥大化し、民間や植民地も含めた巨大な角南体制ができあがっていく。
 もうずいぶん前になるが、京都のM錺金具(かざりかなぐ)店を訪ねた折、『江流会名簿』という小冊子に出会った(昭和18年度版)。角南隆を筆頭に、本省・地方・植民地の技術者や民間事務所の設計者、工匠などが会員に名を連ねていた。戦中期の最も肥大化したスナミ・マフィアの名簿と言ってよいだろう。「江流会」という名前の意味が分からなかったのだが、昨日K氏に聞いたところ、「読んで字の如く、大江の流れを汲む会、ということだな」と即答いただいた。スナミ・マフィアの神棚にはオオエノミコトが祀られていた、ということか。
 大正から昭和初期にかけての日光修理、伊勢遷宮明治神宮創建は、近代国家の高等教育機関が輩出した日本建築技術者たちを結集したビッグ・プロジェクトであったが、工事が終了すれば技術者も移動せざるをえない。明治神宮造営局にいた小林福太郎は日光修理に移動し、日光も終わるとついに独立の道を選ぶ。K氏が一時奉職した稲垣事務所の稲垣某は伊勢遷宮後の独立組だという。タイミングは色々だが、とくに若い図工(ドラフトマン)を束ねるような中堅技術者たちが(おそらくは配下の図工たちを抱えて)独立の民間設計事務所を開設する例は大正/昭和の境目あたりに集中している。結局、戦中期の膨大な国家的神社造営は、(本省スタッフも急増したとはいえ)彼ら民間設計者に支えられた面も大きかったのである。だから、マフィアの名簿には当然彼らの名前も含まれるが、彼らの多くはかつて大江の部下でもあったことを、昨日は強く意識させられたのである。