富山に行ってきた・2010建築学会大会(北陸)

9月11日の研究懇談会「近・現代建築のアーカイヴスとドキュメンテーション」。アーカイビングをめぐる諸問題についてとても勉強になりました。スピーカーの皆さんありがとうございました。
あらためて確認したのは「近代建築」分野のアーカイビングはあくまで「建築家」の固有名に結びつけられてきたということ。作品(作物=さくもつ・さくぶつ)としての建物(たてもの)はアーカイビングにおいてはコンテンツのサブ・ユニットを構成するラベルであり、全体の統合は建築家の名前の単独性による。なので、資料は建物の資料であるより以前に作家の資料であり、ゆえに、たとえば建物の施工図・竣工図よりも建築家の手になるオリジナルの原図が最も重視される。著作権上も、図面はむろん、建物までが作家の脳裏にある観念上の建築の「写し」とされる(・・・ん!)。
(こうしたこともシンポジウムでは問題にされていたので誤解なきよう。ただ今のところは作家主義的な路線でやってきていて、これはアーカイブだけの問題にはとどまらない。近代建築史のあり方の問題だし、建築ジャーナリズム、いや建築生産の棲み分け構造の問題にもつながっている。)
会場にいた地理学分野の大学院生が真っ先に質問に立ち、建物が建っている場所とかそれを使ってきた地域社会の記憶とか、人文的な資料との連携関係にも可能性あるんじゃないかという意見を投げかけたが、上のことに照らすと、これはなかなか鋭い問いを含んでいたと思う。ちょっとはぐらかされてしまって残念だったんじゃないかな、彼は。
そのへんを踏まえると、逆に従来とはちょっと違った建築アーカイブの構想も可能になるわけで・・・。ちょっと考えてみようかしらん。などと夕方、時間つぶしに乗った富山地鉄線にのんびり揺られながら思った(実はこの電車、幻滅するくらい速くてびっくり。でも沿線にはかなり木造駅舎が残っていてなかなかよい雰囲気だった)。
昼間は富山市内の旧城下をしつこく歩いた(最後の方はほんとに倒れそうだった)。
僕は地方に行くと必ずその県の護国神社を訪ねることにしている(護国神社は正確には陸軍師団区に一社ずつ建てられたが、師団区はたいていは県と同じで、県庁所在地の城跡公園かその近くに護国神社は立地することが多い)。護国神社は規格化された環境セットの設計モデルがある(1930年代に確立)。富山県護国神社も典型的な護国神社様式で建設され、戦後も同様の設計で復興されたが、現在はその手前に巨大な拝殿が建てられていて、これはフムフムなるほどという感じであった。ちょっとだけ資料をいただき辞す。
そのあと旧城下の町地・寺社地を歩き回ったが、見事に歯抜け。たいへんな低密度である。家が残る場合も、敷地に対する「建ち方」が大きく変わる。LRTとか貸自転車システムが有名だが、この低密市街地は目を覆いたくなるほどだ(でも地主は土地を手放さないんだなあ・・・)。
それから「いたち川」の川辺をずっと歩いた。プロムナード的整備がされているが、生活雑排水ががんがん流れ込むので川岸へ降りて歩くのはけっこうつらい。しかし社祠と地蔵堂がかなりの密度で川辺に残り、しかも地域生活のなかで息づいていることが様々な表出物からありありとうかがえて感動した。