白井晟一展シンポジウム/原爆と検閲/レンズの解像度

 7月17日(土)、東京造形大に白井晟一展とシンポジウム「白井晟一が生きた時代 Part2」に出かけてきた(残念ながら6月のPart1は出席できなかった)。シンポ開始前に長谷川堯先生にお時間を頂戴して相談にのっていただく。シンポでは日埜直彦氏の白井晟一文人説(主知主義的な整合性のための過去の動員ではなく、つねにすべてが現前するとしか言いようのない古今東西のあらゆる知と芸のなかでの自己の統合と絶え間ない修養、というような)が冴えてた。
 原爆堂が耳に残っていたせいか帰りに橋本駅で新刊の繁沢敦子『原爆と検閲』 (中公新書、2010)が目にとまり購入。国家的検閲制度、いやむしろ編集者や記者たちの「自主検閲」というナショナリズムを半ば打ち砕きつつも断片化されざるをえない彼らの広島・長崎体験。記者が送った記事は、検閲により寸断され、各紙の自主検閲や編集方針にしたがって色々なしかたで切り詰められ、切り刻まれる(ときには数本の原稿が編集されて一本の記事になる)。掲載された報道記事はもとの原稿の断片化されたヴァリアント群。その可能的な総和を求め、もとの原稿の状態を復元する、そういう作業がたぶん本書の背後でなされているだろうと想像してひそかに感動した。量的・関係的な解像度をあげないと論じられないものがある。近代以降の権力は遍在的なエコロジーに働くというのがフーコーでありましたね。
 それはともかく、建築を考えるときに解像度(対象との近さ・遠さのありよう)というのは重要で、僕は当面は二種類のレンズでよいと思っている(けど、ときどき尋常でなく大きいとか、ボケてるとか歪んでるとか、自分にないレンズが欲しいと思ったりもする)。
 7月19日(月)はムサビで期末試験。帰宅後『彰化』増補中文版の原稿完成に向けてぐいと一歩進めた、はず。もう一歩、なんだけどな。暑いー。