時代に“なめす”ということ。

雑事に追い回されてやるべきことができないなどと言い訳をしても仕方がなく、大学教員とは何者であるのかを大局的に考えしかるべく身を処せと、僕もそう思う。同僚の某先生が私によくそう忠告してくださる。かけがえのない忠告だからこそ、引き裂かれつつ悶々とすることになる。先日、立川駅駅ナカにある書店でふと鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書1234、2010)に手が伸び、電車通勤の時間に読んだ。短い文章を集めたものだが、ひとつひとつが腹にこたえる。「もうろく」を潔く受け止めながら強い言葉が発せられる。私に忠告をくださる先生も同じかもしれない。
「大学とは、私の定義によれば、個人を時代のレヴェルになめす働きを担う機関である」(p.81)と鶴見氏は書いている。皮をなめす、の「なめす」だ(念のため)。なめされることに慣れた個人はゆるい忠義を誓う権威をつねに必要とし、状況によってその権威を容易に変えてしまうし、そのことに気付かない。「なめす」大学でよいはずはない。
これとも関連するが、僕にとって一番重みをもって響いた一文を引く。

言葉に表現されない思想が、言葉に表現される思想との対立を保ちつつ、これを支えるとき、言葉に表現される表の思想は、持続力をもつのではないだろうか。(p.140)

これが僕に最も欠けているものだということは、学生の頃から分かっていて、もがいていたりする。