1971年『都市住宅』誌 年間テーマ〈セルフエイド系の発見〉

71年度〈都市住宅〉の年間テーマは、〈コミュニティ研究〉から〈セルフエイド系の発見〉にひきつがれる。ここで私たちは、創刊以来追ってきたいくつかの暗流を、ひとつの意識の光において辿りなおすことになるだろう。
最初に自覚しておくべきことは、このようなテーマ設定が、セルフエイド系の単なる肯定とは結びつかないであろうということである。この周辺の問題を、一般論的に肯否することはもはやあり得ない。次には全く新しい作業パターンによってのみ、充実化するように思われるのである。
このことは即ち、私たちにとって、いわゆる公器としての建築ジャーナリズム(こういう表現の論理性すら、もともと疑わしいところだが)がすでに破産していること、運動体としてのジャーナリズムの機能が問われている事実を示している。
ジャーナリズムの立場は、それなりに明確になってこよう。もし、セルフエイドという言葉が直接、作家的反映、つまり建築作品・都市計画に帰結されるとすれば、そこでは、観念的な人間主義との癒着、偶然的な肯定が、そのまわりを徘徊することになるのではないだろうか。
作品に無限に接近してゆきながら決して結びつかないフィールドにおいて始めて、セルフエイドという言葉が、方法論として成立するはずである。この作業が建築・都市の創造に転化するとき、そのときはまた別の言葉から出発すべきだと、私たちは考える。
(都市住宅 1971年2月号)

植田実しびれる    。それにしても、およそ深化されたとは言えぬまま時間がひとまわりしてしまっていることを何とする。僕たち。
研究室のサブゼミで、ひとつのグループが『都市住宅』1〜100号を再読している。今日の住まいや都市への意識・感性はだいたい1970年前後に出揃っている。問いとその限界性がともに意識されていたことも私たちにとって大いなる礎である。ゼミで100号全部を消化することは無理なので、サーヴェイの潮流を再考することを一応の柱にしているのだが、同誌の特徴のひとつ「年間テーマ制」について紹介してほしいとリクエストしたところ、この71年の〈セルフエイド系の発見〉をピックアップしてくれた。このテーマの宣言号となる71年2月号は、ヴァナキュラーなもの、ブリコラージュ的なもの、住みこなし、カスタマイズ、増築・・・といった広い意味での自助的なるものへの視線のスクラップブックになっている。そして上に引用した編集者の扉。「作品に無限に接近してゆきながら決して結びつかないフィールド」   リサーチャーはそういう「あわい」のごとき場をいかにセットアップできるか、デザイナーはそこに独自のジャンプを重ねて現実を書き換えられるか、である。