内田祥哉先生講演会にて、建築のリダンダンシーについて。

先週4月23日(金)、駿河台の明大アカデミーコモンで内田祥哉先生の講演会が開かれた。演題は「サステイナブル建築と寿命」だったが、核心的な主題は建築のフレキシビリティであり、むしろそれを支える構法上のリダンダンシーだった。それがとても面白かった(注:内田先生は「リダンダンシー」という言葉は一度も使っていない)。前半は日本の伝統的民家の自由と不自由について。いわゆる叉首組の構造(とりあえず白川郷の合掌造を想起)は、ヴィオレ=ル=デュク的な意味で構造的な「真」かもしれないが、その美しい真実の構造は、変化の要求に対してリジッドすぎる。システムの単一性というのかな。その単一性をはみ出る要因(増築とか)に出会うと容易に破綻してしまう。正確にいえば、その撹乱要因をシステム内部に包容できない。和小屋は、まさにこの種の構造的「真」を放棄するところにリダンダントな自由を開くものだ。屋根形式も、寄棟にすればあらゆる平面に対応できる。柱もできるだけ細くして数を増やし、荷重負担を分散させれば、抜いたり動かしたりできる。こうして、軸組+薄い真壁+和小屋+寄棟屋根といった構法的複合を、3尺モデュールの(緩い)作業空間によって律した日本家屋のシステムは大いなるリダンダンシーをもった融通無碍なシステムとして進化してきたということになる。ちなみに中国建築は基本的にはつねに構造合理的で、ついにこのような進化をしていない。またヨーロッパの民家でも井籠組(校倉=木の組積造)による矩形の壁体が高い剛性をもち、ゆえに叉首組を踏ん張るのが合理的だが、この単純な家型から変形できない。
後半はいわゆるMC(モデュラー・コーディネーション)開発の軌跡と限界について。伝統的日本家屋と工業化以後の建築との決定的な違いが明らかになる。thickness problem が顕在化するのだ。木の冗長性と、鉄等の厳密性が露呈するということだろう。そして内田先生のリダンダンシー志向はル・コルビュジエの「ル・モデュロール」解釈にまで及ぶ。黄金比は実は2:3、3:5、5:8といった比と視覚的にはほとんど区別できない。また正方形の格子はわずかな乱雑さをも容易に露呈してしまうが、黄金比付近の長方形の格子ならば乱雑さを許容しうる。つまり黄金比は人の感覚のもっとも鈍いところをねらったものだというのである(コペルニクス的転回!)。おもしろい。などと言っていたら、懇親会場ではにんまり笑った深尾精一先生が余裕の別解釈をそっと披瀝してくださり、二次会では安藤正雄先生から本来は音の問題である黄金比を視覚の世界に持ち込んだルネサンス以降の美学のあゆみとそれをひきずったル・コルビュジエに関するコーリン・ロウの議論をまずもって踏まえてもらわねばと批判的な意見を(僕が)頂戴した。うむ・・・構法計画系の方々のこの透徹した感じはたぶん具体性とシステム性を兼ね備えた独特の世界の存在によるものだと思った次第である。