2010年3月18日・田中淡教授退職記念講演会「中国建築を読む:重畳する空間と技術の伝統」於:京都大学人文科学研究所

昨日は日帰りで久しぶりに京都大学へ。田中淡先生の最終講義を拝聴した。中国建築が東アジア世界の中心として太い幹をなすように発展したきたことは言うまでもないが、講義では、古代の規範を考証し再現する努力を反復してきたのが中国建築の歴史であるということを強調された。ゆえに、「実年代」も、「様式」も、日本建築史とは異なる意味をもつことになる。つねに復古的創造が畳みかけるように重ねられてきたからで、しかも、ヨーロッパのような複数の異質な規範の相克がほとんどないに等しい。講義のタイトルは、空間・技術の重畳性ともに、そうした時間の重畳性を含意したものである。
実は『アジア都市建築史』(布野修司編・アジア都市建築研究会著、昭和堂、初版2003)の第III章「中華の建築世界」を書いたのは私(ちゃんとクレジットあるので告白するのもヘンだが)。僕は中国建築史の専門ではもちろんないので田中淡先生のお仕事の主なものを読ませていただいて何とかまとめたという体のものである。勉強させていただいたなかで一番印象に残り、かつ今も自分の研究に直接役立っているのは、日本のいわゆる大仏様(天竺様)のルーツが北宋時代の福建省に「ある」のだが「ない」という話である。まず東大寺南大門のような建築は破格すぎて、そもそも比較しうる類例が「ない」。浄土寺浄土堂ならば『営造法式』(1100)に南方の地方様式との注釈付きで似た形の図が出てくるが、挿肘木も遊離尾垂木も木鼻も「ない」。実際に歩いてみても福建にも他のどの地方にも、大仏様の特徴がまとまって現れる遺構は「ない」。つまり大仏様というのは福建と日本の大工たちを結集した瞬間的・仮設的・実験的な場においてえいやと立ち上げられたアドホックで混血的で、なおかつ高度に統合的な建築の姿という他ないらしく、普通に言う意味では様式ですら「ない」、というわけである。なぜこの話が僕にとって意味深いかというと、ひとつには台湾のヴァナキュラーな建築技術を含めて、福建の人と技術が東シナ海を行き交うイメージを思い描けたからで、もうひとつは技術というものが(一般には要素技術の複合的連関のうちに拘束されながら弁証法的に発達するものである一方で)ときおり一気に合理的ハイブリッドを成し遂げることもありうるという、そういう視点を開かれたからである。