台湾映画「海角七号」をみた。

 シネスイッチ銀座にて妻と台湾映画「海角七号:君想う、国境の南」(監督脚本=魏徳聖 WEI Te-Sheng)をみた。あちらでは2008年に公開されて台湾映画史上最大のヒット作となったのだが、ようやく2009年末に日本でも公開となった。シネスイッチ銀座では間もなく上映終了だが、春先まで各地で上映されている。とても面白いので興味ある方は是非どうぞ(劇場情報はこちら)。
 植民地支配とその解放、台湾と日本、北京語と台湾語、ホーローと客家と原住民、地方ボス、過疎化とまちづくり、台湾・日本の人気歌手、人気アニメ、CGによる過去の再現、・・・いま台湾で売るならこれを突っ込んでおけというネタをぜんぶ突っ込んだような映画であったが、人物の設定や演出が成功しているし、映画常連俳優でない役者たち(まったくの素人含む)の演技もなかなかよく、等身大の台湾が愉快に描き出されている。たとえば町議会の議長のセリフ。「オレの趣味はケンカと殺しと放火だ。オレの夢はなあ、この町をぜんぶ焼き払って、都会に出てった若者を呼び戻して町をそっくりつくり直すことだ。」おお何という明快さ。町の衰退を憂うヤクザまがいの議長さんのこの思いが映画の基本的プロットをつくり出し(注:殺しも放火もしません)、そこに愛すべき人物たちが巻き込まれていく。あとはもう、ああこういう人いるわ、台湾の田舎ってこんな感じだわという描写の嵐。
 ただ、僕が楽しめるのは、台湾の普通の街や村、それに家々の生活を、しかも台湾人の妻と一緒に調査してきたり、むこうの親戚やら友人たちとも付きあってきた経験があるからかもしれない。言葉の雰囲気もなんとなく分かるし。台湾人ならなおさらだろう(逆に海外では難しい)。映画の魅力のかなりの部分がそういう「実感の共有」に負っているという印象はぬぐえない。要するにプロットからセリフの語彙まで大部分が台湾ナショナリズムに沿って構成されている。その構成が、緻密すぎず、美的すぎず、適度に緩いのも台湾で共感されやすい理由であるように思う。
 台湾ナショナリズムの背景には、多層的な「歴史的文盲」と、これを解きほぐす多層的な運動がある。監督の魏さんも、戦後台湾における記憶の抑圧を解くことが彼のテーマのひとつだと言っている。このテーマはむしろ候孝賢以来の台湾映画のひとつの主流だ。台湾ナショナリズムは、また、日本植民地支配への批判を緩らげる方向に働く構造をもつ。日本人はこのことをよく知っておくべきだ。「海角七号」もこれと無縁ではない。事実、日本公開にむけた広報では台湾−日本の歴史的関係を個人間の恋愛の物語により救うという主題が強調されたという感はやはり強い。タイトルも台湾では「海角七號」(引き揚げた日本人男性の恋人である台湾人女性の家の住所)だけだったが、日本語タイトルは副題に「国境」「南」「想う」といった言葉が補われている。しかしまた、このこと自体が日本の一般的観客には理解されないだろう(だからこそ広報戦略として成功するのだが)。どうも野暮ったい言葉ばかり並べ立ててごめんなさい。