プレゼンチスト村野藤吾/郡司ペギオ幸夫の時間論/建築雑誌2010年2月号

私は厳然なるプレゼンチストである。(村野藤吾「様式の上にあれ」『村野藤吾著作選・様式の上にあれ』鹿島出版会 p.15)

実は presentist を主な英英辞典で引いてもヒットしないから、これは村野の造語と考えられることをまず確認しよう(現在主義者の意)。で、その意味を理解するには村野の「時間論」を再構成してみる必要があることだけは間違いない。「厳然なるプレゼンチスト」であるためには、過去と未来をも厳密に考えざるをえないはずで、結局それはある種の全体性をもった時間論になるだろうから。実際、現在の後継でない理想的な未来(ユートピア)を村野は認めないし、現在をもたらすのではない過去(カタログ化された様式)も斥ける。村野はベルグソンも読んでいた。

進化と云うものは・・・終局を狙うというよりもむしろ方向を取って、しかもその適応においてさえ創造的なのである。(村野 前掲書 p.41)

現在という持続に生きる他ない私たちは「いかなるが転変合成の窮極か、いかなるが創造的進化の落所かを知るに苦しむ」のだ(村野)。
郡司ペギオ幸夫『時間の正体〜デジャブ・因果論・量子論』(講談社選書メチエ、2008)を読み進めている。素人には難儀な本だが、何をしようとしているかはよく分かる気がするし、時間論の難しさと面白さがドライに徹底されている。なんで村野が出てきたかというと、郡司の時間論がほとんどプレゼンチスト村野の図解のように思えてきたからである。
建築雑誌2010年2月号(昨日一気読みした)の言葉でいえば、時間論とは「有象無象」への態度の問題だとも言える。村野の現在主義とは、有象無象の広大なネットワーク(過去)をそのつど呼び出し、「私」は自らの逃れられぬ現在性を賭してその部分集合を新たに組織化してみせる、それが次なる可能的ネットワーク(未来)を開く。村野はたぶんこんなふうに時間を捉まえていたようで、この運動性を抑圧するような時間論はすべて否定する。村野の強靭さはこのあたりにあるように思う。
ところで有象無象特集は、今期の編集委員会の歴史意識を濃密に露出させた特集だと思いました。