獄舎的なるもの

少し前に、伊東豊雄の「座・高円寺」をみた。すでに学生たちはブログに感想を書いているが、僕は何といってもむかし書いた伊東豊雄論(『建築思潮』05, 199703)のことを思い出して妙に感慨深かった。せんだいメディアテークのコンペが終わった頃、1996年夏に集中的に書いたのだと思う。当時の建築がプログラムとかランドスケープとかをテーマとして透明化・環境化してゆこうとする趨勢のなかで、伊東の透明性への拘泥は少し違っていて、つまり身体に対して建築が持ち得てしまう形式性(形式的拘束性)からいかに逃げるかという問いに発する根気のいる試行錯誤であり、それは建築的操作の点でも建築家の位置の確立という点でもいかにも息苦しいものではないかというようなことを書いた。丹下健三磯崎新ならば、ある建築的形式への疑いは別の建築的形式の定式化へ向かうための回路であり、そこには必ず反転的な運動性があるのだが、伊東の場合はある曲線の先を目指すためにその横の漸近線上を走りつづけなければならないような、そんなイメージを持ったのである(伊東さんがこの文章を読んでくれたことを後でご本人の口から聞いたときは本当に嬉しかった)。
座・高円寺を訪ねるにあたって雑誌の記事を読んだが、伊東の思考が80年代から一貫していて、今もほとんど変わりのないことに驚き、ちょっと感動した。「薄い皮膜にすればするほど、「内/外」が明確化していた」。まさにそのとおり。そして目指すのは「形式があるけれど、無いように感じられる」状態であると。ここでは「形式」は消し去るものでないことがはっきり言われている。そして、「閉じる」ことも関係的な環境をつくるための手段になりうるということに気付いた、ともある。
実は今日はサブゼミで学生たちと長谷川堯の名著『神殿か獄舎か』(相模書房、1972年/タイトルエッセイ「神殿か獄舎か」の初出は『デザイン』1971年11,12月)を読んだ。やはり学生には分からないようだ。分かるのだけれど分からない。僕も最終的には彼らと同じだ。なぜあんなにも「書く」ということに切実な重さがあったのかということが実感できない。
僕は「神殿か獄舎か」を読んで伊東豊雄のことをまた思い出したのだが、なぜそうなのかといえば、両者の問いがクロスするからである。ある本(五十嵐太郎編『建築の書物/都市の書物』INAX、1999)に布野修司が『神殿か獄舎か』の論評的紹介を書いているのだが、こういう分かりやすい解説を読むとたいてい、「神殿」と「獄舎」は二分法的に立てられているということになっていて、その単純さが長谷川の強さであると同時に、限界であり罪であるということになっている。しかし普通に考えて「神殿」の対義語が「獄舎」であるはずがない。神殿をつくる暴力装置(国家)が獄舎をもつくるのだから。つまり長谷川のいう「獄舎的なるもの」とは、建築が暴力であるほかないことを引き受けつつ、それと一体化するのではなく、それを不可視化あるいは無毒化しようとするのでもなく、その暴力でしかないものによって人(身体)にどう働きかけるかを問う他はないという姿勢なのである。
「中野本町の家(White U)」は(住み手の事情によるとはいえ)文字通り獄舎としてつくられ生きられた建物だったということになろう。その後の伊東の建築は一見軽やかになるが、建築の形式性(神殿性)は消し去ることができないからこそ、微妙な調整を反復するしかない。「内/外」、「閉じる/開く」をめぐる、どちらかに振れてしまわない緊張は、長谷川の問いとつながっていそうだ。
けれど、伊東が「形式が・・・無いように感じられる」状態を目指すというとき、やはり長谷川が獄舎という言葉を使わなければならなかったことの特異性は底知れない気がする。