震災の痕跡を。

笠原一人+寺田匡宏 編著『記憶表現論』(昭和堂、2009)をお送りいただく(長いことお会いしていない旧友の笠原さんから。謝謝!)。神戸での疎外的被災(とでもいうべき)体験以後、過去の事件の「記憶」とその「表現」をめぐって、研究フォーラム、展示会、出版等、多くの専門家との貴重な共同作業(運動)を積み重ねて来た、その重みが通底する問題意識の鋭さとなって伝わる本である。編者の笠原(近現代建築史)、寺田(歴史学博物館学)両氏のほか、映画『ショアー』の日本語字幕制作に携わった哲学の細見和之氏、音楽家の港大尋氏(評論家・写真家の港千尋の弟さん)、近世から近代へと日本の美術史「周辺」を開拓しつづける木下直之氏、環境ノイズエレメントの宮本佳明氏(建築家)、さらには詩人の季村敏夫氏、写真家の宮本隆司氏といった人々による互いに響き合う探求。
あらかじめ十分に強調しておくべきことは、たとえばホロコーストの表象不可能性をヴォイドで示すといったリベスキンド的言説に寄り添ってしまう本ではないということ。むしろ笠原さんがいうように「世界は痕跡で満ちている」のであって、その痕跡をしていかに語らせるかが課題。また、そこここに遍在する「痕跡」はたとえ非日常的なものであっても身の回りの問題であって、祀り上げてしまわないかぎり、やがて日常に埋没する(痕跡それ自体は消えてしまうこともある)。だとしたら、編者たちの出発点であった阪神淡路大震災の「痕跡」とそれに対する人々の関わりが具体的に探求され描かれていてもいいのではないか。この点が読後感としてもっとも気になるところであった。
その点にもかかわるのだが、僕が一番面白かったのは木下直之さんの「戦争が終わって転々とするものについて」である。長期戦を余儀なくされた兵士や捕虜たちが、戦場の塹壕という非日常の場にあって身の回りの物品から転用的につくり出したモノたちを英国等では「トレンチ・アート trench art」と呼ぶことがあるのだという。日本にも例えば日露戦争のとき戦艦三笠の被弾艦材を用いて製作された灯籠とか、いわく言いがたい物品が日も当たらずあちこちの資料館や神社等に眠っていて、これらを木下は江戸の「つくりもの」(一種類の日用品や材料によってそれとは異なる動物や人等の姿をつくる)と結びつけ、その感性は少なくとも明治期いっぱいは続いたのだと見る。で、木下はこうしたモノたちを一度だけ「トレンチアート展」とでも称して美術展の枠組みで紹介してはどうかと提案する。この際、「一度でよい」というのがとても重要で、無名の兵士たちが資材を発見し、何かを考え、手を加え、できあがった物品が場所を動き、意味を変えたり失ったりする、このすべてにまつわるコンテクストは「美術」では掬い切れない。「美術」はただ彼らモノたちの再発見のために利用すればよい、というのが美術の周辺を住処とする木下さんの面目躍如たるところであろう。(ほかにも映像や音声に対するイデオロギーの親和性など、重要な指摘がいろいろある)
というわけで、もし僕がこの貴重な一書をあえて批判するとすれば、やはり震災の「痕跡」について、宮本佳明の実践への批評的賛同というかたちでリベスキンドとは異なる軸を示すという戦略にとどまるのでなく、編者による具体性を持った独自の論をじっくり読みたかった、という一点に尽きる。旧友にいただいた本なのでほとんど批判せよと言われているような気がして大真面目に批判しているが、それは本書と近接する問題を考えている一人として批判的に展開すべき本だと思うからである。
皆さんも是非ご一読を。