角南神学・検証の手がかりとなる2冊

5月11日のエントリーでふれた2冊を読了したので感想のようなものを書きたい。いずれも1980年に95才で逝去する前に書かれた角南の遺稿を、生前の弟子である西本輝六氏の監修により2巻に編み直したもの。
  ・角南隆『万物は生きている』(パレード、2006)
  ・角南隆『神社とは何ぞや』(パレード、2009)
角南隆は、帝国大学を卒業して明治神宮造営局に入った1916年以来、ゆうに半世紀を超えて神社造営に携わった。その間、彼はずっと根源的な問いを発しつづけたものらしい。私は終戦までの内務省神社局〜神祇院時代の角南の言説はかなり目を通したつもりだが、これら2書、とりわけ『神社とは何ぞや』を読んで、彼の問いが国家神道体制の前提をも揺さぶりかねない性質のものであったことをはじめて確認した。たとえば角南は、殉難者・戦死者を祀る靖国神社護国神社、あるいは過去の忠臣等を祀る旧別格官幣社の一群などは本来は成立すらしないものと見ていた。人間は神にはなれない。彼の疑問は天皇を祀る神社(明治神宮等)にも向けられた。なぜ臣下である国民が、どの天皇を祭るかなどという不遜な議論を行いうるのか。「爾今、決してこの類の過誤を冒してはならない」。この種の批判と提言を、実は終戦前、つまり自身が内務省神社局あるいは神祇院の造営課長だった頃から角南は展開していたらしい。むろん彼はより正しい神社のあり方を見極めようとしているのであって、国家神道を批判したいのではないが、しかし現実の国家神道の根幹に響きかねない批判が多く含まれる。なぜ体制の内部にいた彼がこうした問いを発しなければならなかったのか。その理由は本書を読んでもまだ謎である。しかし、齢90を超えた彼が若き日の問題をいくぶんか回顧的に記述した箇所、つまり終生一貫した問いを少しばかり相対的に語ろうとした箇所にいくつか出会えるのは本書の貴重な点である。

私がその最初から懸念していたことは、我々が古い慣例に倣って造ったこの神社に果たして、目指す神が安らかに入って下さるものだろうか。つまり、我々が神を知らずして造った当て推量の建物や施設の中へ入って下さるであろうかであった。また一方で毎日を神前奉仕と唱え、ご神意を伺い、ご神慮をお慰めし、日本語で意思を祝詞し、山海産の人間の食品類を奠供する。このプロセスに疑問在りとするならば、すべてが疑問ばかりであって、その源を言葉にすると「神とは何ぞや」に尽きるのである。(p.14)

自明となった慣例への疑いを通してより確実な規範を構築しようとする運動。それが宗教と歴史にかかわる点で、やはり19世紀のゴシック復興運動に通ずる。「何ぞや」というかたちの問いは一般に実証的に解けるものではない。むろん古典にあたり、古社をめぐらねばならないが、答えはそこから自動的に引き出されるものではない。遠い古代へと思考を投げては反響を聞くような往復を通じて構築されるモデルには、当然ながら先験性がいつまでも残る。だからそのモデルは繰り返し弁明・強化され続けなければならない。他方、神社の現状がモデルにそぐわないのであれば、現状こそが糾されねばならない。
神籬/磐境の峻別、天津神国津神の区別などの説明が繰り返される。これらが神社の物的な環境構成のレベルをも整序する根本的な原理となる。伊勢神宮であろうと熱田神宮であろうと、これにそぐわない点は容赦なく列挙され、修正を要求されている。とすれば、新しく創建される神社では角南はどんな改革を試みたのだろうか。残念ながらこの点は語られない。
角南の思想は実はさほど難解でもないし神秘的でもない。むしろ明快な形式によって神社の成立構造が整理されている。ただ、他の諸研究との相対的な位置については私の知識を超えるので今は何とも言えない。少なくとも、このレベルから説き起こす神社建築史はないと思うが。
いずれにせよ、ここに書かれている角南思想が、彼の関わった神社の環境にどのように反映されているのかを検証する膨大な作業が残されている。まずもって監修者の西本氏にお会いしなければならない。