アヒル・ヴァナキュラー・テイストといったところがキーワードでしょうか:高円寺にBUILDING Kを訪ねる。

昨日(20090524)、高円寺・阿佐ヶ谷を学生たちと歩いたのだが、そのプログラムのなかで、藤村龍至設計のBUILDING K(2008)を設計者本人の案内で見学させていただいた。かなり直前になって連絡するという失礼なお願いだったにもかかわらず、多忙をおして快諾いただいたという次第。僕は前にトウキョウ建築コレクションの審査でご一緒しただけでちゃんとお話するのは初めて。
お会いする前の勝手な予見はこんな感じ → 彼の師匠でもある塚本氏はドゥルーズ的、対して藤村氏はデリダ的。
直感的なのでいけないのだが、だいたいこういうこと。近頃皆さんがいうように、もはや従来的な建築家の手の出ないところで大抵のことが決まってしまう。その水面下のプロセスこそが先端的な領域を押し広げる局面もあるが、広く浸透して工学ヴァナキュラーの均質な海をつくる。一方、無意識化したプロセスはときどき突然変異体もつくる。で、塚本さんは現象としてのトーキョーの海に手を突っ込んでぐいと直接に強い変異体を掴み出してそれを一般解(の候補)と言い切ってみせるようなところがあるが、藤村さんは現象を生み出しているあらゆる基底的諸元を手許に並べてスタディを徹底する作業のなかから内破的にズレを導こうとしている。どことなくネガティブな回路の不可避性、手続きの自動性などがアイロニカルに言われているのではないかと思わせるところがある。以上先入観。
お会いしてみて思ったのだが、藤村さんの方法の重要なところは、設備、構造、法規、周辺環境、採算性、その他諸々の諸元にヒエラルキーを与えず、むしろそれらをレヴィ・ストロースが言う「資材」のように見ているフシがあること。つまり、疑いようのない結合を果たしてしまっている(ように見える)諸元を、いったんほどいて独立に働きうるようにしておいて(つまり色んな潜在的結びつきをもった資材性の状態へと差し戻して)、互いの組み合せの可能性をいろいろ試す。で、面白いと思うものを育てる。テキストから想像してたのと違ってかなり明るくて開放的。
けれどブリコラージュと違うのは、あくまで諸元のインテグレートを目指すこと。その意味でやはりエンジニア(的デザイナー)。むしろ中途半端なエンジニアリングの眠った可能性を推し拡げようとする純正モダニストでもある。
ところが面白いのは、出来上がったものが工学ヴァナキュラー的であること。つまりこれまで“あちら”にあずけていた諸元を可能なかぎり意識化して“こちら”へ引きずり出し、分析的に処理して再統合しているのに、出来上がりは無意識的に生み出されている周囲の風景に擬されている(building K の周囲は高円寺の言わずと知れた恐るべく元気な商店街)。これはフィニッシュだけの問題として済ませられそうになく、設計の過程で終始そういう方向付けがなされていると考えるべき。まあたしかに批判的工学主義の出来上がりが谷口吉生みたいだったら誰も信用しない。ただし今僕が使った“擬す”という表現が適切かどうかは検討の余地あり。一方、ヴェンチューリのいう「アヒル」(構造表現主義)は何が何でも避けるという強い意思がある。しかし藤村さんもまあテイストの側面はあると言っていた。身体に染み付いた東工大スクールの性でもあるとのこと。(このあたりの諸々がぜんぶ微弱(強烈)な作家性への意識に連なっていることに注意)
逆説的に、テイスト(趣味)の問題は必ずしも周縁に置いておけば済むというものでなく、なかなか重要かもしれないと思った。テイストは集団や階級の表現である。スクールの問題とも絡むが、藤村さんにはやはりヴァナキュラーの側に立つのが普遍的たりうるという思想(イデオロギー)が垣間見える(ポストモダンぽくてもこれはモダニスト的で、ある種ユートピアン的だが、それが生産的なプラグマティズムと同居しているところが藤村さんの特徴かな)。
というわけで、アヒル、ヴァナキュラー、テイスト、このあたりの関係を明るく言語化していただけると僕などはすっかり啓蒙されてしまうかもしれない。

(藤村さん、お忙しいところ本当にありがとうございました。+子供連れで失礼しました。)

(20090531付記)round about journalの今日の記事で藤村さんがこの記事について詳しく紹介しておられますので要チェック。
(写真入れましたが、さて Building K のどこでしょう)
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