池辺陽の渋谷計画のことなど

(写真は記事と関係ありません)
 ちょっと前の話だが、11月28日に藤森照信先生の研究室にお邪魔して、ある図面を拝見させていただいた。残念ながら御都合に合わせることができず先生はご不在であったが、研究室のBさんとNくんに立ち会っていただいて2m四方ほどの計画図9枚をじっくり見る。1946年の制作で、渋谷区全体の戦後復興都市計画案として設計競技で2等となったもの。終戦直後の復興計画ではモダニスト建築家たちが全国で絵を描いているがその全貌はよく分からない。廃墟となった都市に対してどのような態度がありえたのか、要追跡である。
 池辺の案は、人口・交通・商業・娯楽などに関するデータの分析から施設平面までを含むのだが、描かれたものはもう見事なまでにCIAM流の“輝ける渋谷”であった。タワー・イン・スペース、つまり開放された広大な空間のなかにタワーが林立する静まり返った都市の風景。したがって前提として先行する都市組織はほぼ根こそぎにされている。道玄坂歓楽街ですら、その名を記された鉄筋コンクリートのタワーに収められてしまっている。実際には1946年といえばヤミ市が青空露店からマーケットへと組織化され・・・という権力すら巻き込んだ都市生成の現場が展開していたはずなのだが(これも研究せねばと思っている)。
 1950年前後になるとヤミ市が一掃されて駅前広場や道路や商店街などへと組み替えられていくわけで、その直後に、東急−坂倉による渋谷計画がはじまるのだが、それは池辺の計画とはまるで異質であり、つまりCIAMとはまったく別種のアーバニズムの思想を体現していた。このあたりの急速な転換を克明に描き直しつつ、その射程を言い当てなければならない。
 藤森先生ありがとうございました(素敵な秘書の方の独断で、『建築史的モンダイ』をいただいてしまいました)。