都市史特論10/郊外の誕生〜武家地開発から私鉄支配へ〜

 郊外の問題を考えるには、多少回り道になっても、産業化時代に都市が経験した新しい局面を理解する必要がある。というわけで、産業革命期のイギリスの都市生活誌を紹介。この時期のイギリス都市についてはエンゲルスのものをはじめとして膨大な記録があり、庶民=労働者の生活実態を克明に再現することができる。排泄・入浴から毎週土曜のパブの風俗まで。汚物が溢れかえる道路や裏路地。ゴシック・リヴァイヴァルの国会議事堂前を流れるテムズ川が強烈な異臭を放ち、議員が気絶したことさえある。ペスト、チフス結核コレラの流行。新興工業都市リバプールの平均寿命は工場労働者世帯では15才程度であったという記録もある。一般論としては、こうした都市から上流・中流層が脱出していくのが郊外の形成であり、したがって郊外の誕生は階級分化の歴史でもある。
 ハワード田園都市論(1902)は工業も農業も備えた自立都市を目指すものだから、この階級分化の趨勢への抵抗でもある。それは職住一体の中世への回帰志向でもあったし、同時に共産主義思想への共鳴でもあった。それゆえ彼は土地建物が私有されない都市を目指すことで資本によって都市が振り回されるのを抑止しようとした。彼の『明日の田園都市』は、その大半が、資本主義のイギリスにおいて小さな半・共産主義的な都市をつくるための事業計画の検討(計算)にあてられている。
 さて日本はどうだったか。イギリスのような深刻な都市問題を経験したのは大阪である。城下町時代の市街地の周辺にたっぷり残っていた平地に次々に工場が林立して、町場が工場に取り巻かれたかたちになる。明治中期の紡績工場の40%が大阪に集中していたといい、1900年頃には大気汚染や水質汚染はロンドンと同様の水準になっていた。ちなみに同じ頃にロンドンに渡った夏目漱石は、空を見上げても太陽は見えず、タンを吐くと真っ黒なかたまりが出てきたと日記に書きつけている。阪神電鉄(1905開業)や箕面有馬電軌(1907年開業、のちの阪急電鉄)が立ち上がるのも同時期。彼らは最初から、水と緑と太陽にあふれた健康的で文化的な郊外居住の魅力をパンフレットや企業PR誌を通して宣伝する方法をとっていた。そして阪急の小林一三は鉄道線の延伸と住宅地開発を一体的に進める戦略を確立、のちには世界初のターミナルデパートを建設。ビジネスモデルの先進性ではつねにトップを走った阪急に、関東の私鉄も追随した。この動きのなかで「田園都市」はほとんどキャッチコピーとしてのみ使われた(内務省地方局有志の『田園都市』(1907)もまた違う意味で意図的誤読であったことが知られる)。
 東京では、少なくとも明治末までは近世の武家地の再開発こそが住宅地開発であるという時期が続く。前回も確認した武家地ストックの量という先行条件はそれだけ大きなヴォリュームを持っていたし、また工業都市化という方向性が弱かったことも、大阪とは条件が違っていた。したがって、まずは旧武家地を何らかのかたちで継承しえた大小の地主階層が、東京の当面の宅地開発の行方を握っていたことになる。そして鈴木博之先生らのグループが明らかにしてきたように、集中型大土地所有者こそが住宅地開発というかたちで新しいまちづくりの実験を行ないえた。私鉄による宅地開発がはじまるのは、おおむね武家地ストックを使い切った大正期からであり、とりわけ関東大震災(1923)の被災状況は丘陵地帯の優位性を明らかにしたため私鉄にとっては追い風となる。昭和期は、私鉄が吸収合併を繰り返して寡占化・肥大化してゆく時代であり、それが戦後の圧倒的な郊外開発と、渋谷・新宿・池袋などのターミナルの急成長を準備したと考えられるだろう。