西洋建築史08/大聖堂の世界〜ゴシックとは何か〜

第7回(前回)、教会堂とモスクの比較をやったが尻切れ気味だったので再度まとめ直し。その上で、「どちらがより“一神教の空間”にふさわしいか」という問いを学生に投げて挙手させてみたところ、モスクの圧勝であった。なぜならモスクは、絶対的超越性としての神に対して絶対的に現世にとどまる他ない人間が絶対的な服従を表明する空間であり、表象しえない神の世界を表象することは棄てており、個々のモスクでは完結せずただメッカに向かって祈るための無数のモスクが唯一の神の下に吊り支えられた唯一のイスラム共同体を表現するのみなのであるから。学生たちがこちらに挙手したのは一定の理解に到達したがためだろう。ただ、イスラムの教えに服していない僕には古典期のまるで倉庫のようなモスクに入っても宗教的な観念を感得することは難しい。いや正確に言うと、僕はイスラムの教えを少しは知ってはいるから、モスクで伏臥する人々を見て、これこそが近づくことを許されない神への人間の態度であることを知り、平伏するための空間が禁欲的に用意されていることこそ逆説的に宗教的観念の表現なのだと感銘を受ける。しかし、ゴシックの大聖堂に入れば信仰も知識もない人間でさえある宗教的な感興に没入することになるだろう。その秘密について今日の授業では技術的・図像的な角度からより突っ込んで考えてみたわけだが、つまり内部空間を軽やかに上昇する線と厚みのない光のスクリーンへと還元してしまうこと、それをさらにステンドグラスや彫刻によって意味の世界(聖書や福音書の教え)で満たしていくこと、そのような仕方において教会堂はそれ自体が超越的世界たろうとする。そのために組積造における石の物質性と圧縮に耐える力学とを消し去るのだが、それは内部では消去すべき石の量塊性と力学的緊張とを外部では露呈することを厭わないほどに強い欲求なのだった。さて、それでもモスクの勝ちですか、かなり迷うんじゃないですか?
そもそもイエス最後の審判で全人類の罪を一身に背負って死ぬが、しかし間もなく彼が復活する事実をもって神は人類の罪を許したのだと解釈され、ゆえに神の世界の実現はすぐそこに迫っているのだから聖堂を建てミサを行ってその日に備えよ、とキリスト教では説かれる(つまり神の世界と現世とが一体化するのであり、人間と神との距離が無化される、その日が来ることになっているのだ)。ミサの聖体拝領(キリストの肉と血を取り込んで一体化する)も示唆的。教会堂の思想の本質はきっとこのあたりにあって、それはモスクの思想とはまったくかけ離れている。
絶対的超越性に対して人間がとることのできる態度として、両者はやはり相当に突き詰めた回答を示してきたと思う。建築的回答もまたしかりである。